<STJ新春コラム>映画「怪物」再考-「怪物」と「それでも、生きてゆく」(執筆:多田圭介)

|
目次 |
1.はじめに
新年1本目の記事。さて何を書こうか。ちょっと迷ったのだけど、いま一番関心を寄せているテーマについて書こうと思った。ここ数か月、もっとも時間をかけて考えていたこと。それは脚本家の坂元裕二と映画監督の是枝裕和がタッグを組んで2023年に劇場公開された映画「怪物」についてだった。音楽でもオペラでもなくてごめんなさい。ん?なんで謝るのだろう。このところ、アニメや映画など映像作品について論じることに、音楽や舞台を言葉で語ることよりも関心の比重が傾いている。そのことに、もしかしたら後ろめたさを感じているのかもしれない。その後ろめたさの正体についてはここでは考えない。まずは、なぜ今映画「怪物」について書きたいのか。とりあえずそこからだ。
「怪物」は公開直後からけっこうな批判に晒された映画だった。一時は炎上といってもいい状況だった。この映画のエンディングでは(盛大にネタバレします)、性的マイノリティの男の子2人が社会の抑圧の犠牲になりバッドエンドを迎える(所説あります)。泣けるラストの道具として性的マイノリティの悲恋を体よく使ったことに少なからぬ人が嫌悪感を示した。だが、この解釈は、本作で坂元と是枝という巨人2人が激突したことによって、作品がややいびつな形態になったことが生んだ、悲しい結果だったように思う。いや、もう少し慎重な表現が必要かもしれない。「怪物」を坂元×是枝の作品として見た場合、そうした解釈を正当なものとする余地が生まれるのはたしかだ。いやいや、「怪物」はそもそも2人の作品なのは事実だ。だが、あくまでも「坂元の脚本」という観点からみると、この解釈は、やや難癖のように見えてくる面がある。
なぜなら、坂元の脚本「だけ」を読むかぎりは、そして、坂元という作家のこれまでの軌跡からこの映画を眺めなら、坂元は<性的マイノリティという現代の社会問題を直接の主題としたわけではない>はずだからだ。もちろんある時期の坂元はそれぞれの時代の社会問題を作品で扱うことから「社会派」と呼ばれたこともあった。だがそうした時期の坂元であっても、その時代の社会問題についてなんらかの仕方でジャッジすること、そうして観客に1つの回答を示すことを目的に作品を書いてはいないように思えるのだ。ここに「怪物」炎上から本作の射程を再評価するヒントがあるように思える。では坂元は「怪物」で何を描きたかったのか。ここを解きほぐすのがこの記事の目的だ。
つい最近、あるきっかけがあってこのテーマについて考えるようになった。年明け前に大学の授業で坂元裕二の作品を扱った。そのために坂元作品を集中的にみなおした。そのなかで、「怪物」と坂元の過去作の繋がりには強い主題的必然性があることに気づいたのだ。特に2011年のTVドラマ「それでも、生きてゆく」と「怪物」には、太い線をひくことができる。その視点から「怪物」という映画が持つポテンシャルについて再評価できるのではないか。こう思ったのだ。前置きが長くなってきた。先へいこう。

イラスト提供:necco.さま (https://www.pixiv.net/artworks/111001695)
2.「怪物」の物語構成
映画「怪物」は、LGBTQ+やクィアを主題にした作品を評価するクィア・パルム賞を受賞した。その影響もあって、映画批評でも過剰に「怪物はクィア映画だ」という見方が強くなったように思う。まずはニュートラルにあらすじを紹介したい。
「怪物」は長野県の山間の小学校で起きた出来事を、時系列を巻き戻しながら3つの視点から描いた映画だ。1周目は、シングルマザーの麦野早織(安藤サクラ)の視点。物語は担任の保利先生(永山瑛太)から早織の息子の湊(黒川想矢)が暴力を受けたことについて、早織が学校に抗議するシーンから始まる。この視点からは、学校側は隠蔽と責任逃れにやっきになっているように見える。
だが2周目に視点が担任の保利先生に移ると、それは誤解で、湊のクラスメイトの星川依里(柊木陽太)を湊がいじめていたこと、保利はそれをやめさせるために正当な指導をしていたかに見え始める。そして最後の3周目には、それも誤解で、星川をいじめていたのは他のクラスメイトだったことが明らかになる。そして湊はいじめられている星川と仲が良い。いや恋愛感情を抱いている。複雑な想いが交錯し、湊は隠れて星川と遊ぶようになっていた。映画の結末では、湊と星川が隠れ家にしていた山奥に放置されている電車の廃車両を土砂崩れが襲う。2人はその犠牲になり死によって魂が救済される(ようにも見える。筆者は死んでいないと解釈している)。
一つの出来事が、視点が動くたびにまったく異なった相貌を示す物語構成は本当に見事だ。しかも、こうしてざっくりとストーリーをまとめてみると、そもそもこの映画には性的マイノリティだけではなく、片親への無理解や、公立学校の保守性など他にも現代の社会問題が散りばめられていることに気づく。だが、それらの描写は批判の対象にはならなかった。「怪物」をクィア映画としてみた場合に寄せられた批判のなかで、参照に値すると思われるものに、久保豊(映画学,金沢大学)の解釈がある。
3.伏見校長の「しょうもない」というセリフ一つ目の解釈-ポリコレ路線
久保は、本作についてリンクの記事のなかでこう述べている。
「『怪物』による少年たちの描写には痛みと美しさが共存する。その組み合わせがつねに「間に合わない」(too late)メロドラマ的な慣習を通じて観客に涙を流させ、その涙を通じて観客に「気づき」を与える。製作者たちが用いるそのような物語的技巧は、少年たちに痛みを生じさせる構造的な問題自体は映画物語内で不問にし、抑圧を再生産・強化させる問題の所在を見えづらくさせているのではないか。」(久保豊「『怪物』に性的マイノリティンの子どもたちは救えるのか。「美しい物語」が見えづらくさせたもの」(https://www.cinra.net/article/202306-kaibutsureview_iktay))
久保はマイノリティへの抑圧に対する手当ての「不在」をこの映画にみている。久保が注目するのは、映画終盤のこんなシーンだ。湊は小学校の校長である伏見(田中裕子)に、好きな子がいることを告白する。そして校長に、「人に言えないから嘘ついてる。幸せになれないってバレるから」と呟く。この校長は閉鎖的で保守的な現代の公教育の負の側面を代表する人物だ。その校長は湊に対してこういう。
「そんなもの、しょうもない。誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない。しょうもない、しょうもない。誰にでも手に入るものを幸せって言うの。」
この「そんなもの」と「しょうもない」というセリフが何を意味しているのかは詳しくは語られない。観客に委ねられているところがある。久保はこう解釈する。<恋愛感情を抱くことは誰にでも平等に認められるべきことであって罪悪感を抱かなければいけないような社会が間違っている>。だからそんな社会も湊の罪悪感も「しょうもない」ものだ、と。だからこそ久保はこう憤る。
「しかし、「しょうもない」と簡単に言えるほど、「普通」の呪縛は簡単に解けるものだろうか。幼い頃から異性愛・シスジェンダー中心主義的な映像文化や周囲の人々の言葉に触れることで内面化された呪縛は、強大なものではないか。「しょうもない」の一言で片付くなら、現実世界に暮らすマイノリティたち(のなかでもさらに弱い立場にいる人たち)は、日々踏みつけられるような思いをしなくても済むはずじゃないか。そうスクリーンに叫びたくなった。」(久保、前掲記事)
もし、「怪物」という映画が性的マイノリティという現代の社会問題について何らかの態度表明を示した作品だとすれば、こうした批判は免れないところはあるだろう。久保はあくまでも「政治的な正しさ」(いわゆるポリコレ)の視点から、この映画を、傑作だとは認めつつもその視点から難点を見出している。だが、評論家の宇野常寛はこうも述べている。
「坂元にとって、少年犯罪やジェンダーギャップとは自分が描きたい人間の側面を効果的に引き出すための道具にすぎない。」(宇野常寛『2020年代の想像力』ハヤカワ新書、2023年、42頁)
宇野によれば、この「怪物」という映画は(そもそも坂元の社会派っぽい外見を示した他の多くの作品も)、社会問題そのものを描くことを目的にしているの<ではない>。この解釈は坂元の過去作からの主題的必然性から「怪物」を眺めると、かなりの説得力があるように思われる。少年2人が土砂崩れに飲み込まれる「怪物」のラストは監督の是枝が坂元の脚本の意図よりも、過剰にロマンティックに演出した可能性が高い。画面は光に溢れ、そして少年の魂は死によって救済された。そう推論したくなるのは是枝の演出によるとろこが大きいのではないか(もっとも、是枝も映画パンフレット等で、このラストで死を描いていないと明言しているので、いずれにしてもマイノリティのロマンティックな死による救済の線は一人歩きしてしまった不幸な解釈であったことは動かないとは思うのだが)。では宇野は伏見校長の「しょうもない」をどう解釈しているか。

イラスト提供:necco.さま (https://www.pixiv.net/artworks/111001695)
4.「しょうもない」というセリフの2つ目の解釈-救済の位置のズラし
宇野はこの「しょうもない」というセリフについて、こう述べる。
「彼【湊】の置かれた状況を考えたとき、この「そんなの、しょうもない」という言葉は間違ったものなのかもしれない。それが誰にでも手に入るものではない社会が間違っているのは、明白だからだ。しかし、ここで描かれているのはこういった自明の正しさを確認することではないのだ。ここで描かれているのは決定的に損なわれてしまった存在たちが、それでも生きてゆくために何が必要だったのかという問いなのだ。」(同上、43頁)
この「決定的に損なわれてしまったもの」とは坂元が反復して描いてきたものだ。それについては先で述べる。まずは、ここでこの「しょうもなさ」とは、(苦手な言葉だがあえて使うと)マジョリティが考える「幸せ」になれない人、さらには、それを求めてもいないかもしれない人、こうした人々の存在をそれ自体として肯定する回路がときには必要なのではないか、それがない社会は「しょうもない」と校長は言っているのではないか。こう読み取ることができる。
宇野は「この描写【校長が「そんなの、しょうもないと湊を励ましたかに見える描写」】を政治的に否定することは簡単だ」(同)と久保に代表される解釈を牽制する。その上で、「その個人的なことをしっかり政治化して、社会の問題として解決するべき」であることも正しいとする。もちろん、坂元も是枝もその政治的な正しさを否定しないだろう。だが、だからこそ、宇野はこの映画はその種の政治的な正しさを「「しょうもない」、と捨ててしまえる領域に救済を配置している」(同)のではないか。こう述べている。
つまり、マジョリティの立場から、マジョリティと同じ幸福がマイノリティにも与えられること、これは当然追及すべき価値だし、やったほうがいい。だが、こうしたまっとうな価値観を「しょうもない」と切り捨ててしまえるような境地でしか救済できないものというのは、世の中には存在する。「正しさ」でも「幸福」でも包摂できないものは確実に存在する。
坂元が脚本を担当した多くの作品を通時的に俯瞰すると、たしかに彼はある時期から一貫してこうした存在に眼差しを注いでいるように見える。それでは、マジョリティの価値観そのものを「しょうもない」と一蹴してしまえるような領域とは何か。それは「怪物」だけではなく坂元の他の仕事も視野に入れると徐々に明らかになってゆく。そうしてもう一度「怪物」という映画を見ると、そこから見えてくるものは、あまりに多い。正しさでも幸福でも包摂できないものとは何か。坂元は過去作でそれをどのように描いているのか。それと「怪物」はどう太い線で結ぶことができるのか。ポイントは、宇野のいう「決定的に損なわれてしまった存在たち」という言葉に含まれる二義性、つまり、マジョリティが考える「幸せ」になれない人、さらには、それを求めてもいないかもしれない人、こうした人々への眼差しである。

イラスト提供:necco.さま (https://www.pixiv.net/artworks/111001695)
5.「それでも、生きてゆく」-損なわれた存在への眼差し
2011年のTVドラマ「それでも、生きてゆく」を参照しよう。この物語は、劇中の時系列での15年前の1996年の夏に妹を同級生の友人に殺された深見洋貴(永山瑛太)が、山奥で釣り船屋を営んでいるところから始まる。そこへ、遠山双葉(満島ひかり)が訪ねてくる。この遠山双葉は、15年前の事件で深見の妹を殺した犯人である三崎文哉(風間俊介)の妹だった。15年前の少年犯罪によって、加害者と被害者の2つの家族は決定的に壊れてしまっていた(損なわれてしまった)。ドラマは深見と双葉の出会いで始まり、そして2人が結ばれることでこの2つの家族が再生へ向かうことを予感させるが、そうはならない。
15年経って、刑務所から出所した文哉は、文哉の子を身籠った看護師を、さらには文哉の身元を引き受けてくれて仕事を与えてくれた恩人が営む果樹園の一人娘を、次々と手にかけ、第二、第三の罪を犯してしまう。こうして2つの家族はより決定的に損なわれる。背景には、核家族が人に無条件の承認を与え、人々を支えるものであるという20世紀的な家族幻想の限界、それはもう再生できないしすべきでもないという世界観もある。だが、それ以上にこの作品が問うているのは、マジョリティ(もう一度書くと嫌いな言葉だが)が考える幸福が、決定的に損なわれてしまい、それでも生きてゆかなければいけない人にどのような救済があり得るのか。これである。もう一つの損なわれた存在、すなわちマジョリティが考える幸福を求めてもいない人、それが三崎文哉だ。
6.「それでも、生きてゆく」-文哉という「他者」
クライマックスは第10話。深見と双葉は瀬戸内海の因島で文哉と再会する。深見は文哉を殺すためにナイフを忍ばせている。文哉は手足を縛りプールへ飛び込み自殺を図るが、深見は文哉を助けてしまう。そして、3人は島の食堂に入る。深見は、精一杯の言葉で文哉に語り掛ける。その最後に15年前の友人である文哉に対して、絞り出すように「お前と一緒に朝日が見たい。お前と一緒に見たい。もうそれだけでいい」と渾身の言葉をかける。赦すということだ。文哉がこの言葉に打たれて改心し、そして損なわれたものたちが再生へ向かう展開が予想されるが、その言葉は文哉に届かない。文哉はこう答える。
「ごはん、まだかなぁ」
筆者が知るかぎりのTVドラマ史上、最も圧倒的なシーンだ。絶対に理解できない、絶対的な他者が画面に現れ、その存在感が物語を覆いつくし、視聴者は底が見えない崖に立たされ、足がすくむことになる。この文哉という人物は、坂元が反復して描いてきたもう一つの他者、つまりマジョリティが考える幸福を<求めてもいない存在>だ。こうして、「それでも、生きてゆく」には、幸福を求めても決定的に損なわれた存在とそれを求めてもいない存在が登場する。坂元はこういう他者との断絶を繰り返し描いてきた作家だ。深見は文哉と徹底的に向き合おうとしたからこそ、物語には絶対的な断絶が生まれる。この断絶を視聴者に突きつけるために坂元は物語を書いているようにも見える。
ユリイカのインタビューで坂元はこの文哉という存在についてこう語っている。
「ある時点で「ああ、これは、俺は文哉のことわからないよ」って思ったんですね。どうしたら理解できるんだろうということはずっと考えていて、このままじゃこのドラマを終われない、文哉の幕を下ろすことができないと思って、すごく不安だったんです。そして結局わからないまま終わったという、自分の中ではすごく悔しい、課題の残るドラマでしたけどね。」(「特集=TVドラマの脚本家たち」『ユリイカ』2012年5月号、青土社、111頁)
坂元自身としては、文哉をちゃんと理解できる人物として描ききることでドラマとしてケリをつけたかったというのが本音のようだ。だが、この坂元の言葉に対するインタビュアーの岡室美奈子のアンサーが振るっている。岡室はこう返す。
「最初からわからない人間として造形するのではなく、わかろうとして書くからこそ、わからないということがリアルに伝わるのかもしれませんね。」(同上)
これは坂元以上に坂元の本質を捉えた言葉だろう。「それでも、生きてゆく」が傑作となったのは、深見が、妹を殺した友人の文哉の気持ちを分かろうとして苦闘を重ね、言葉を尽くし、だがその結果として、その営為が<挫折する>からだ。はじめから「人は人」と他者にシャッターを降ろすのではなく、<みんな話せば分かり合えるよ>とマジョリティの常識で他者を蹂躙するのでもなく、徹底的に向き合おうとして、その末に挫折するからこの物語は視聴者を圧倒的な断絶に陥れる力を持ったのだ。教訓めいたことを言えば、マジョリティの常識で他者の人生を分かった気になることへの警告とも言えるが、ここには創作物を描くこと、そして鑑賞することについての、重要な視点がある。
坂元は分からないものを手探りで探り当てようとしている。それが坂元にとっての「創作すること」だ。坂元の作品において、ときにそれは、誰もが予感しているがまだ輪郭を掴み出せていないものを、創作物の力で掴み出そうとする営為となる。それは視聴者にも同じ覚悟を要求することなる。つまり、はじめから分かり切っている「政治的な正しさ」や「マジョリティの考える幸福感」を前提として、それに合致するかどうかで作品に〇や×をつけるような鑑賞仕方とは違う態度を求めている。そして、その態度こそが、創作すること、鑑賞することの最も深いレベルで本質をなすものだろう。
こうして振り返ると「怪物」に登場するシングルマザーやその息子の湊や星川も、自分たちの常識で簡単に推し量ってはいけない他者として描かれているのではないだろうか。そうだとすれば、<そうした他者たちに、私たちと同じ幸福への道筋が用意されていないこの映画には政治的に問題がある>という批評は、空回りしている面があるのではないだろうか。もちろん、そうした「他者」の例として性的マイノリティを「使って」しまう坂元の手つきには、不用心さがある。政治的な正しさで作品をジャッジすることが「鑑賞すること」だと思い込んでいるような人に、付け込む隙を与えてしまっている。だが、自分を守るために注意深く表現を取り締まるようなそうした思惑そのものを坂元は「しょうもない」と切り捨てられるような世の中を求めているのではないだろうか。
7.創作と決断、暴力について
私たちは、物事を先へ進めるためには、必ず他の可能性を切り捨てて一つを選ばなければならない。そのときに、何かを切り捨ててでも、他の何かを選ぶ決断を支える根拠が大切になる。その根拠に対してならどんな批判もあっていい。だが、何かを選ぶために<他の何かを切り落としているからダメだ>というのは、批判でも反論でもない。ただの難癖だ。映画「怪物」をめぐって起きた炎上騒ぎから今私たちが持ち帰るべきことはこの辺りにあるのではないか。
人間は生きている以上は広い意味で暴力的であらざるをえない。何かを選ぶと必ず何かを捨てることになる。こんなことは当たり前のことだ。だが、だからこそ、誰かの作品や意見に対して反論や批判を試みるのではなく、たんに「潰そう」とすることはいつでも可能になってしまう。だが、そうした営みは決して批判や反論なのではない。その違いが分からない人間には、本当の意味で創作物を鑑賞することはできない。
映画「怪物」をめぐる久保の数々の論考は、クィア文学や映画を真剣に研究してきた立場からしか言及できないような発見に溢れている真剣さ、そして鋭さがある。それは間違いない。引用箇所以外の全文をお読みいただければそれは分かると思う。だが、坂元の作品を自明の政治的な正しさでジャッジすることによって、結果的にその批評が広い意味での「難癖」になってしまっていると言える余地はあるように思われる。さらには、作品へのこうした態度が、久保自身はいかに自覚しているとはいえ、作品を読解する努力もしなければその能力もないけど、人に悪口は言いたいというタイプの人に、そのお墨付きを与える結果になってしまったことは、この映画をめぐってはとても不幸な出来事だったように思う。
最後に久保の論考から得た示唆についても記しておきたい。映画の後半で、湊と星川は廃車両のなかであるゲームに興じる。回答者は動物などの絵が記されたカードを自分の頭上に掲げる。自分には見えない。そして出題者に対して「4つ足ですか?」などの質問をする。出題者は「はい」か「いいえ」を答え、補足のヒントも出す。回答者は質問を続け、カードの絵柄を絞り込む。今風にいえばアキネーターチャンレンジだ。カードをひくときの「怪物だーれだ?」の掛け声がゲーム開始の合図となる。
このゲームで湊はナマケモノのカードをひく。星川はヒントとして「君は敵に襲われると、体中の力を全部抜いて諦めます。痛みを感じないように」といい、自分の身体を倒しながら“いなす”ような仕草を見せる。それに対して湊は、カードに描かれているのは「星川依里くんですか?」と答える。とても痛ましいシーンだ。久保はこう述べている。
「ナマケモノとして振る舞うことは、日常的な暴力のなかで依里が身につけた静かな線損方法である。【略】「普通」の呪縛からの暴力に耐えてきた依里が苦笑いを浮かべる姿に自らの過去や現在を重ねた観客もいたであろう。」(久保、前掲記事)
そして、映画を通してこうした痛みを抱えている人たちが「自分たちと同じような子どもたちが世界に生きていることを実感」できるようにすることが「映画の力であり、映画がいまこそカメラで捉えるべき救いの光であるはずだ」(同)と結論している。
あなたは怪物ではない。スクリーンを通して、生きることが困難な人々に、そうエールを贈ることが映画の役割だということだろう。こうした数々の繊細な読みからは多くの示唆を得た。筆者はそこにこう付け加えたい。このゲームは、怪物とその他の存在を区別しない距離化された視座において初めて見出される感覚へと人を連れ出そうとしているようにも読めるのではないか。
この映画の視聴者は、視点が3周するあいだ、“タイトルの「怪物」とは誰のことなのだ?”とミステリーの読解のように怪物探しを余儀なくされる。モンスター・ペアレントが怪物なのか?それとも教師か?いじめっ子か?と。凡庸な作家であれば、その最後にこうして誰かを怪物扱いすることで自分を守ろうとする視聴者自身の内なる怪物と対峙させる展開が予想できる。だが、この「怪物だーれだ」のゲームを通して怪物とその他の存在の差異そのものが解除されてゆくかに見える。このゲームでは「怪物」が微塵も悪しきものとして扱われていない。そこに“あなたは怪物ではない”という救いはもう不要になっているのではないか。ここで坂元は「正しさ」では掬い取ることができない領域に視聴者を連れ出そうとしているのではないか。世界にはそういう領域が必要だと言いたいのではないか。
「怪物」の星川は、作中で明言されてはいないが、父親を殺すためにガールズバーが入居したビルに放火したことが仄めかされている。星川は成長して「それでも、生きてゆく」の文哉になるのかもしれない。怪物になるのかもしれない。でも、それでも、彼らの生そのものは祝福したい。「怪物」も「それでも、生きてゆく」もその結末でそんな感情が湧いてくる。「怪物」にも「それでも、生きてゆく」にも、人間に対するそのような根源的な肯定の眼差しがある。決して、自分のなかの怪物を見つめようとか、無実の人間を怪物にしてしまうこんな社会が間違っているとか、そんな「しょうもない」言葉は出てこない。
(多田 圭介)
(※↓に投げ銭が設定されています。こうした記事ももっと読みたいと思ってくれた人はそちらからご支援いただけると記事の公開数が増えます。)
※「投げ銭」するための詳しい手順はこちらからご確認いただけます
