札幌劇場ジャーナル

ことばと文化(4)- 令和のスペシウム光線

編集長コラム

 本紙第3号を発行した4月末、日本は改元フィーバーに沸いていた。同時に平成の30年を総括する番組やコラムがメディアを賑わせた。元号という単なる記号が変わることで本当に何かが変わるとでも思っているのか、とそんな空気を訝しげに眺めていた。しかし、いざ令和に突入してみると、トランプのファーウェイ課税にはじまり、芸能界と反社の癒着、あいちトリエンナーレでの公権力介入など、タガが外れたような出来事が連続で起こった。いや、そんなことは昔からあったことだ。そう言うかもしれない。たしかに今に始まったことではない。しかし、炎上した当事者たちは事態をどう収束させようとしたか。その手続きに注目すると、冷戦終了とインターネットの台頭というまさに平成の30年で、静かに、しかし決定的に後戻りできないところまで進行した現実が可視化される。炎上した当事者たちは、Twitterのタイムラインの空気を操作することでダメージコントロールを図った。そうすることでまた別の話題にみんなが石を投げだすまで時間を稼げばいいという戦略に出た。統治機構すらその策謀を弄した。令和の日本は、統治機構すらTwitter村の空気に動かされている、そんな社会になっている。これは、言ってみれば「下からの全体主義」である。平成は「下からの全体主義」が成立した30年。ここで外れたタガは紛れもなく平成の嫡子だ。  

 そんなことを考えながらネットを眺めていると、庵野秀明がシン・ウルトラマンを制作するというニュースが入ってきた。言うまでもなく庵野は2016年にシン・ゴジラで、戦後日本の「膿」を見事な批評性によって総括した。核の傘に守られながら経済発展を遂げる一方で、押しつけられた平和憲法によって去勢され「永遠の12歳」に留まり続けている日本の文化空間を卓抜な視点で描写した。ゼロ年代以降の日本映画の最高傑作といってよい。しかし、世界はさらに進んだ。令和の世、庵野はウルトラマンに何を語らせるのか。

 ウルトラマンという物語はサンフランシスコ体制のアナロジーによって成立している。敗戦という決定的な体験によって、政治的・精神的両面で劣位に置かれた戦後日本にとって、かの国は「義父」として機能してきた。戦後日本は平和憲法によって去勢され、成熟することが許されない永遠の少年を演じることを強制されてきた。戦後日本の文化空間が生みだした物語は絶えずこの呪縛との格闘だった。モビルスーツという拡張身体によって疑似的な成長を手に入れ大人社会に割って入ることを夢見た機動戦士ガンダムもそうした文化空間から生まれた。ウルトラマンに登場する巨大怪獣ないし宇宙人はソビエト連邦や中国と言った東側諸国の軍隊のアナロジーである。科学特捜隊やウルトラ警備隊は自衛隊、そして超越的なヒーローであるウルトラマンはアメリカ軍のそれだ。もちろん、ウルトラマンという作品がかつての戦意高揚映画だといいたいわけではない。むしろ、この作品はサンフランシスコ体制、すなわち戦後日本が抱えてしまった「ねじれ」に正面から突き当たり、迷い、立ち往生する様を描いた。そうして表現を深化させた。つまり正義のヒーローが悪を倒すという構図を強制され、その構造がサンフランシスコ体制に酷似していたがゆえに制作者たちはその矛盾や欺瞞に立ち向かわねばならなくなったのだ。

 「ウルトラマン」では、ウルトラマンは光の国の超越者であった。ウルトラマンとハヤタ隊員とは別人格でありハヤタはウルトラマンに変身すると内面を宿していない絶対正義に切り替わる。しかし、次作「ウルトラセブン」では、ウルトラ警備隊のモロボシ・ダンとウルトラセブンは同一人格として描かれた。超越者でもあり人間でもあるという分裂した内面を抱えるモロボシ・ダン=ウルトラセブンは、超越者として振る舞うほどにその内部の矛盾に苛まれるようになる。そして、その欺瞞を自覚しつつも地球を守るためにスペシウム光線を放ち、そのたびに手を汚す苦悩が前面に出てくる。脚本家の森川はそこにベトナム戦争が影を落としていたと語っていたが、この正義像の揺らぎはもっと本質的な問題の反映である。それはウルトラマンという絶対正義の超人が、その実、近代的な国民国家という物語が捏造した権力(すなわち偽りの超越者=ウルトラマン)を孕むヒーローであったことの欺瞞に制作者たちが耐えられなり、作品が内側から壊死をはじめたということだ。国民国家を支える大きな物語が、そもそも国家統合のために仮構されたフィクションであったことの暴露といってもよい。

 やがて冷戦も終わり平成に入ると、特撮映画は、怪獣を非人格的な環境のアナロジーによって表現し始めた。ガメラがその典型だ。平成ガメラの3作でガメラは、異物を生理的に退ける、いわば地球の白血球という位置が与えられた。平成ガメラは、敵国にスペシウム光線を放つことで公共性を表現できなくなった時代に、それでも公共性を志向する人々が直面せざるをえないものを丁寧に拾い上げた。しかし、「ガメラ2 レギオン襲来」では終盤に、ガメラが仮死状態に追い込まれ、そして、子供たちの祈りによって復活してレギオンを倒す。せっかく非人格的なシステムとして怪獣を描くことに成功したのだが、最後にサンフランシスコ体制時の正義観に巻き込まれてしまった。切通理作は、この構造は同時期に制作された「ウルトラマンティガ」にそのまま反転していると述べている。ウルトラマンティガの最終話で、ティガは最大の危機に追い込まれる。その危機はテレビで報じられ、テレビの前の子供たちの祈りでティガが復活を遂げる。このとき、テレビの前で祈る子どもたちは光に包まれティガと一体化する。これは、徹底してウルトラマンを超越者として描き続けた同作コンセプトの終焉でもあった。切通は、両作に共通する、大衆の祈りによるヒーローの復活を「黙示録的共生感」と呼んでいる。人類の存亡がかかるような大災害に直面すると、人類は国家のようなイデオロギーがなくても公共性を発揮し連帯するという意味である。富野由悠季がすでに「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」で描いていたようにだ。しかし、この黙示録的共生は、「テレビ」という国民統合装置によって表現されたことに表れているように、ナショナリズムと決定的に異なるとまでは言えない。仮にナショナリズムを超えているとしても、一人一人の祈りが集結して大きな力を動かすという世界観と、同作のコンセプトである偶然に巨大な力を手に入れてしまった個人の自意識とは、決定的に矛盾する。集合知的な公共性をダイゴ隊員が代表することは本来不可能である。それゆえにティガは光に包まれたあとスペシウム光線を放つことなく消滅するしかなかった。ウルトラマンティガという作品は、ウルトラマンという表現形式の限界を自ら露呈させた作品であり、それゆえに高度な自己批評性を発揮した。最後にダイゴは「人間は自分の力でウルトラマンになれるんだ」と言い残す。Windows95が発売されネットワーク時代に突入し、誰もが社会や政治に発言できるようになる未来に期待を寄せていた95年の作品である。

 そして令和。この情報環境は日本のガラパゴス的文化においてドメスティックに奇形化し、ネットワーク空間は陰謀論の温床になった。同時に、インターネットは、オタクが現実を忘れて引き籠ることができる仮想現実ではなくなり、現実そのものを映し出してしまう拡張現実に変化した。結果、ネット空間が相互監視空間になり、近代的な「個」としての振る舞いを制御してしまうもう一つの日本的ムラ社会に変貌した。こうして、市場・情報環境は下からの全体主義、ポピュリズムの温床になってしまった。満たされない不全感を満たすために強者に自己同一化する弱者のルサンチマンの可視化である。これが平成30年の負の成果だ。こうした状況で新たに制作されるシン・ウルトラマンで、ウルトラマンは何にスペシウム光線を放つのか。庵野の「眼」に注目だ。

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