札幌劇場ジャーナル

ことばと文化(1)

編集長コラム

近代より以前、私たちの祖先にとっては、ただ生をつなぐことがとても困難なことだった。ただ、その日の食を確保し、子孫を残すことが。自然は常に生を脅かす。死は今よりずっと身近だった。それでも、私たちの祖先は、その自然に崇高さを見出しそれを歌ったり、身近な者の死に接して万物の儚さを詩に詠うことをやめなかった。どれほど生きることが困難であっても、歌を詠い、それを享受し、語りあうという時間を大切にしてきた。私たちは、「ただ生きること」だけを目指しているわけではないのだ。

そのような営みの総体を「文化」という言葉で表現できる。一つの文化が形成されると、私たちは他の文化に出会う。文化はそれが育った環境や条件によって独自の内容を持つ。私たちは、他の文化と自分の文化との違いにしばしば驚かされる。そして、敵意を感じたり、逆に関心を向けたりする。異なったものに出会うと、自分の世界観が揺さぶられる。そうして、自分自身に目を向け直す。そのことを通して、文化はより豊かになってきた。こうしてみると、文化の源泉とは、異なるものとの出会い、そして、それを表現し享受し語り合う時間だといってよさそうだ。

いまの私たちに目を向けてみよう。現代はテクノロジーの時代だ。あらゆるものは効率化される。もちろん、現代社会は少子高齢化、働き手不足の時代だ。効率化は社会正義であり、これに逆らうことはナンセンスだ。しかし、私たちは、どこかで気づいているのではないか。効率化を推し進めるほどに私たちはかえって忙しくなるということに。もし、どこでもドアを手にしてしまったら、私たちは働きアリと化すはずだ。しかし、それでもなお、私たちは、そんなときでも、働きアリと化してしまった自分に「異質さ」を見出し、それを詠うのだろうと思う。私たちは文化を捨てない。人間が「ただ生きること」を目指しているのでないかぎり。しかし、もし、私たちが、自分の世界観を揺さぶられることや、そうして不安になることや自分に眼を向けることを避け、いっさい亀裂の入ることのない世界に安住するとしたらどうか。そのとき、私たちは、本当の意味で働きアリとなり、文化を失い、ことばを捨てるのではないか。

人生の目的が「ただ生きること」だとすると、文化とは、徹頭徹尾、ムダで過剰なものだ。しかし、豊かさとはムダと過剰を愉しむこと以外ではありえないのではないか。いや、美しいものはどれも単純じゃないか、ムダを切り詰めてこその「美」だ、と言うかもしれない。しかし、単純な美が達成されるまでに、どれほど余剰を切り捨ててきたのだろう。たった1の単純な美のために99を切り捨てているはずだ。その鉄の意志はやはりムダで過剰なものであるはずだ。だから、単純な「美」には、どこか切り捨てられた「多」の死の気配が漂うのだ。その異質な気配は閉じられた日常に亀裂を入れる。

異質なものとの出会いは文化を豊かにし、他なるものに対する寛容を育てる。ただ生きることではなく、よく生きること、豊かに生きることを望むなら、文化の価値について、立ち止まって思索をめぐらせる時間を大切にしたい。

(多田圭介)

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