札幌劇場ジャーナル

<4周年記念エッセイ> かえるくん、文化を救う ― エヴァ、村上春樹、批評が語りうるもの ―

編集長コラム

1.エヴァのこと

6月に創刊から4周年を迎えました。感謝感謝です。事務局から記念のコラムを書くように言われていたのですが筆が進まず今になってしまいました。本紙は言うまでもなく批評誌です。批評とは常に「何かについての批評」ですが、ある出来事がきっかけで「批評そのものについての批評」を一度まとめておきたくなりました。ですが、考え始めると途方もない深淵に踏み込まざるをえなくなる。それで今になった、というわけです。

イラスト提供:ヌーさん(@NUU_MAKO)

さて、そのきっかけとは、エヴァンゲリオンでした。庵野秀明が手掛けたこの人気シリーズは、昨年完結編である「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の記録的なヒットで幕を閉じました。ここでエヴァの内容に踏み込む気はありません。筆者の頭を離れないのは、その「受容のされ方」のほうです。本作の劇場公開と同時に、NHK4年に渡って制作現場を取材したドキュメント番組「さようなら全てのエヴァンゲリオン~庵野秀明の1214日~」が放送されました。内容は、2012年に公開された前作「エヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を完成させた後、庵野がうつ病を患ったが、周りの支えで健康を取り戻したという内容であり、その経緯はそのままシン・エヴァンゲリオンの劇中での碇シンジに重ねられていました。

この番組が放送されたあと、ネット上では「庵野監督、うつが治ってよかったね」という、あくまでもTV番組の感想が、瞬く間に「シン・エヴァンゲリオン名作だったね」に変換されていきました(注1)。みんな、作品そのものはあまりちゃんと観てないんだなと思いました。庵野監督は、「病気が治ってよかった」という作品「外」の感想が、どこかで作品そのものの評価にすり替わることを計算していたはずなのです。番組の最後のほうで、映画を完成させた庵野が居酒屋のような場所で放心していたシーンがありました。そこで番組スタッフから「なぜこの取材を受けようと思ったのですか?」と訊かれた庵野は、「いや~、商売しようと思ってさ」と虚心に呟いていました。2時間に渡る長編のドキュメント番組のなかで、ここだけ「あ、いま本音を喋った」と感じさせる何かが確かにありました。もちろん、このシーンも庵野自身がOKを出したから放送されたのは言うまでもないのですが、筆者にはマーケティング的な意図を超えた真実が漏れた瞬間だったように感じられました。

(注1:シン・エヴァンゲリオンはその思想的強度の面から検討すると、90年代に庵野秀明が自分で開いた問題領域を展開することなく畳みにいってしまった面が強く、名作とは言い難いと考えます。いまここで詳述はできないので作品そのものについての筆者の解釈については以下を参照ください。多田圭介「人類が補完された後の世界で‐エヴァンゲリオンとセカイ系問題」『キリスト教文化研究所 紀要 第21号』藤女子大学キリスト教文化研究所、2022年3月)

現在の情報環境では、病気が治ってよかったというポジティブな空気を作り出せば、その空気が作品そのもののポジティブな評価に変換されると庵野は気づいていたはず。そして、それが作品そのものが真正面から鑑賞されることよりも優先されて「よい」と判断したはずなのです。

今、SNS上では、コンテンツをめぐる「正しい言説」のあり方はだいたい次のように感じている人が多いでしょう。それは、自分の「〇〇が好きだ」というポジティブな気持ちを、僕もそうです!私もです!と肯定してもらいながら、共感を拡げつつ、その「繋がり」が気持ちよくて、その「気持ちよさ」を促進してくれるような言説が作品についての「正しい言説」である、という感覚です。そして、「批評」という営みもその気持ちよさを促進させるものであるべきだという力が間違いなく強まっています。背景には、いま手っ取り早く票(注目)を集めようと思ったら、みんなが好きと言っている作品(ないし見解)を、「私も好きです」と言って「いいね」を集めるのが一番簡単だという事情があります。

庵野は、そのことをよく理解しており、SNS上での空気を操作することで、映画の評価に繋げることができると気づいていたはずなんです。番組中での「商売しようと思って」という言葉には間違いなくその意図がある。作品の評価が、作品「外」の、それも誰のものなのか分からないような発信の膨張によって決まってゆく。その膨れ上がる空気が世論を動かしてしまう。思えば、コロナだってなぜなのか説明できないような仕方で世論を覆い尽くしました。鬼滅も、理由なく流行った。この1~2年、爆発的に人々の関心を集めたものは、そのほとんどが明確な理由もなく、事柄それ自体とはまったく別の論理によって突き動かされていたように見えます。

2.みみずくん、世界を揺るがす

村上春樹(2002).神の子どもたちはみな踊る 新潮文庫(「かえるくん、東京を救う」を収録)

シン・エヴァンゲリオンの爆発的なヒットを目にして、ずっと頭を離れなかったのは村上春樹の短編「かえるくん、東京を救う」でした。同作には「みみずくん」という正体不明で誰もその姿を見たことがない怪物が登場します。新宿の地下に住んでいるということになっており、ときおり不満が溜まると大地震を起こす。だけど、何が不満なのかも、そもそも何を考えているのかも分からない。響きや震えをその身体で感じ、吸収し、蓄積させ、一定のキャパを超えると地震を起こす。みみずくんは、この世界全体を揺るがすような大きな力を持っているけど、彼(彼女?)に意思はなく、いや人格もなさそう。だから人はみみずくんについて何も理解できないし意思疎通もできない。当然、ときおり爆発する地震も制御することもできない。シン・エヴァンゲリオン、コロナ、鬼滅の大ヒット、そのたびに、この「みみずくん」のことを思い出していました。

みみずくんが暴走するたびに、作品そのもの、事柄そのものについての「批評」が機能していない、そう痛感しました。いまここで「批評」と言っていますのは、職業批評家の言説ではなく、私たち一人一人が紡ぎ出す作品(や出来事)についての言葉のことです。少なからぬ人が、君も僕もこの作品への愛は本物である、握手!というようなインスタントな「繋がり」の快楽に流れた結果が、作品それ自体、事柄それ自体への批評的視座を塞いだのは間違いないのです。いや、「何かが好きだ」というポジティブな気持ちを「わたしもです!」と肯定してもらいながら共感の輪を広げることも、作品を介したコミュニケーションの一つのあり方ではあります。それは批評の一つの役割でもある。だけど、その背景には膨大な豊かなコミュニケーションの可能性が存在している。しかし今の情報環境ではそれが流通しづらい。その豊かさでは「いいね」が集まらないからです。

本来の豊かな批評とは、作品という究極的には他人の妄想にすぎないものに、精神が汚染され、そのどうしようもなさ、わだかまりを全力で言語化する営みであるはずです。他人の妄想に、受け取った側がさらに妄想を膨らませるというコミュニケーションです。その批評の快楽を身体で覚えてしまった人というのは、その汚染度が高ければもちろん人生を踏み外します。歴史に残るような作品を生み出すのはこのアウトサイダー層です。こうした深淵に惹きつけられてしまうようなポテンシャルを持っている人というのはいつの時代でも一定数います。そのせっかく惹きつけられている人を甘やかすような、サプリメントのような言葉を紡げば紡ぐほど、モノそのものを見ないインスタントな快に流れてゆく状況に近づいてゆきます。

.かえるくんが文化を救うために

「かえるくん、東京を救う」という短編で村上春樹は何を伝えようとしたのでしょうか。みみずくんとは何の比喩なのでしょうか。ストーリーはざっくりいうとこうです。

主人公の生真面目な銀行員「片桐」が自宅アパートへ帰ると、2mほどの巨大な「かえるくん」が待っている。そして、かえるくんは3日後に東京を直撃する直下型地震を防ぐのを手伝ってほしいと片桐に頼む。かえるくんによれば地震の原因は新宿の地下にいる「みみずくん」。その怒りの爆発が地震なのだという。片桐は了承する。かえるくんは無事に大地震から東京を守る。こんなストーリーです。

ただ、「かえるくん」がいざ「みみずくん」との対決に向かうその日を、片桐は暴漢に襲われ病院の夢の中で迎えます。病床で「かえるくん、かえるくん、がんばれ」とうなされながらエールを送るしかできなかった。片桐は力になれなかったことを詫びる。かえるくんは片桐にいや十分に力になってくれたとこう言う。

「ぼくにはあなたの勇気と正義が必要なんです。あなたがぼくのうしろにいて、『かえるくん、がんばれ。大丈夫だ。君は勝てる。君は正しい』と声をかけてくれることが必要なのです。」

さて、「みみずくん」の正体はなんなのでしょうか。みみずくんが感じとり、そして蓄積させている小さな震えとは、片桐(のようなごく普通の人々)が日常で日々感じ、そして蓄積させているストレスだというのです。自分でもそれと自覚できないままに蓄積されていくから、「誰もその姿を見たことがない」。村上は、たった一人でも「がんばれ、君は大丈夫だ、正しい」と承認してくれる人がいれば、それで僕たちはみみずくんの怒りを爆発させずに頑張れると、そう言っているように読めますね(諸説あります)。

究極的には誰か一人でも自分に賛意を示してくれればその人を支え得る。たしかにそう。多くの人はそれを生きる希望のように思っている。それがこの世界が生きるに値すると思いこめるための希望であると。「世界中が敵になっても僕は君を、、」というひと頃多かったJ.POPの歌詞や、最近だとラノベやゲームの脚本にもある定番の世界観ですね。村上のこの短編は、読みようによっては、それを繰り返しただけにも読める。

ちょっと巻き戻しましょう。究極的には誰か一人でも賛意を示してくれればそれがその人を支え得る。このよく見かける世界観を、逆から読むと「人間は生きているかぎり、必ず誰かの承認を必要とする」となりますね。さて、しかしかしである。一人でも承認してくれればそれがその人を支え得るという世界観を希望として語ってきた歴史に、今の私たちはある意味で報復されていないでしょうか。だって、インターネットというのは1/70億に出会える装置です。どんなに非科学的でも、どんなに極端な陰謀論でも、誰かは承認を与えてくれる。承認というインスタントな快に少なからぬ人が流れた結果が、いまの状況。

村上のこの短編は、地下鉄サリン事件の直後に書かれています。他者に手を伸ばそうとしても届かない。そんな不安が生み出した事件を背景に書かれています。ですが、今は状況が違います。手が届きすぎている。常時接続されてしまっている。今に置き換えるなら、誰もその正体を見たことがないにもかかわらずこの世界を揺るがすような暴力をもたらす「みみずくん」は、何になるでしょうか。おそらく、こうした常時接続された世界でインスタントに承認を得るために発せられたウイルスのような言葉の数々となるでしょう。それが、どれほど文化を破壊するか、そして、批評の言葉の場所を追いやるか。すべての人に発信力を与えられてしまった現在、私たち一人一人がみみずくんなのだという村上のメッセージは、小説が書かれた当時(90年代)とは比較にならない重さを持って迫ってきます。

こう言う人がいるでしょう。「いや、人はそんなに強くない。お互いにもたれ合いながら生きることは必要なんだ」と。ですが、反対なのです。人の懐に入り込んで、こいつ仲間だよねというメンバーシップをゲットできる人は、もう十分に強い人なのです。本当に弱い人はそれさえできない。1/70億に向けて承認を求めることさえできない。そして、それさえできないような弱い人でも生きていけるような、そんな世の中のほうが本当の意味で皆が救われる社会です。そしてそんな弱い人の言葉に場を開くことは、批評というコミュニケーションが持つ豊かさを開放することに繋がります。いま、私たち一人一人が「かえるくん」になり、そして「みみずくん」の暴走から文化を守るために何をすべきでしょうか。それは、「人は生きているかぎり誰かの承認を必要とする」という偏った世界観の解除です。そうして、メンバーシップに紐づいてゆくような承認をベースとしたアイデンティティの形成の負の側面に気づいてゆくことだと思います。 

4.かえるくんとは誰か?

創刊から4年。このたった4年の間だけでも、状況は確実に変化しています。知的な職業に就いている人が、単純で扇情的な言葉に流れるのを本当に多く目にするようになりました。生存戦略としてそうしてみたのが、どこかで脳内の快楽物質に負けて、タガが外れて止まらなくなったのを何度も目にしてきました。以前であれば、慎重で批評性に富んだ言葉を丁寧に紡ぐことを大切にしていた人がです。SNSのタイムライン上で火がついた話題に喜んで参加するようになり、皆が「いいね」と言っているものに「いいね」といい、あるいはその逆張りで。何かできることはないかと、思い始めたのがちょうどシン・エヴァンゲリオンの公開当時でした。できることは、SNS上で、やらかした有名人を一緒になって叩いている人や、単純な陰謀論に加担するような投稿を行った人と距離を置くこと。Twitterのタイムラインの話題に後だしジャンケンで自分を賢く見せようとしている、そういう承認中毒になっている人はヤバい奴なんだというコンセンサスを作ること。そういう発言をした人の投稿には、それがお世話になっている人でも、命の恩人でも、リアクションを一切しないようにすること。こう書いてしまうと当たり前のことですが、まずはそれだけでも、徹底すればほんの一歩でも世の中を動かすはずです。一人一人が、かえるくんになって、文化を、批評の言葉を救済するためにできることは、結構手近にまだまだ転がっているような気がします。そんなわけで、4周年の記念に代えて、批評の力をしっかり伝えられるような媒体になることができるように、批評についての批評を試みてみたということでした。

さて、本紙Web版の編集長コラムには、なぜかカエルのイラストが登場していました。デザインを担当している事務局の趣味です。僕もだんだん愛着が湧いてきたので、カエルに引っ掛けて村上春樹の「かえるくん、東京を救う」に乗せて書いてみました。

2022.8.30 地下の深い場所にて
多田圭介

 

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