札幌劇場ジャーナル

ダニエル・ハーディング指揮 パリ管弦楽団

2018年12月11日(火) 札幌コンサートホールKitara(大ホール)

Kitaraワールドオーケストラシリーズ、ダニエル・ハーディング指揮、パリ管弦楽団を聴いた。20181211日、会場はキタラ大ホール。ハーディングは20169月にパリ管の音楽監督に就任する前、新日本フィルのポストにあり日本のファンにとって馴染みの深い指揮者になった。新日本フィルのポストを離れた後もパリ管とのコンビで毎年来日しているがキタラへの登場は今回が初。曲目はベルリオーズの歌劇「トロイアの人々」より「王の狩りと嵐」、ソリストにイザベル・ファウストを迎えてベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、休憩を挟み後半はベートーヴェンの交響曲第6番「田園」。Vn協奏曲が優れた演奏だったのでそれから述べたい。

 

イザベル・ファウストのヴァイオリンは、ヴィブラートを排した透明な響きが基調。かつ、歌わせずに軽やかに舞うようだった。しかも、遊び心に満ちており変幻自在なのだが、まったく恣意的になることなく堪能させてくれた。一般的にベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲はしみじみと感慨深く演奏される傾向が強いが、ファウストはまったく違う。妖精の舞いのように融通無碍なのだ。しかも、おそらくなのだが、この解釈はファウスト個人の気分的なものではなく、強い信念に基づいた解釈なのだと考えさせられた。それはカデンツァを聴いて確信させられた。

 

まずベートーヴェンはこの作品にカデンツァを書いていない。ほとんどの場合、19世紀後半以降にヨアヒムをはじめとした作曲家が書いたカデンツァが用いられる。しかし、ベートーヴェンはこの作品をピアノ協奏曲に編曲しており、そこではカデンツァを書いているのだ。ファウストはこのピアノ協奏曲編曲版のカデンツァをヴァイオリン向けに再編曲し使用した。

 

このカデンツァにはフィデリオ第一幕からの引用が含まれている(※譜例1:ベートーヴェンによるピアノ協奏曲編曲版のマーチの箇所、譜例2:フィデリオ第一幕のマーチ)。場面転換に使われるマーチである。このマーチは大軍隊の行進のようなおおがかりな音楽ではなく、イメージとしてはカルメンの「衛兵の交替」に近い。ごく気軽な音楽だ。カデンツァに入るとすぐティンパニに伴われてこのマーチが鳴り始める。軽快で愉悦感が強い。だが、従来演奏されているように、この作品をしみじみと味わい深く演奏した場合、楽章の終始部に入りこのカデンツァが鳴り始めたらどうだろうか。このカデンツァだけ浮いて聴こえるはずだ。しかし、このカデンツァを書いたのはベートーヴェン自身。しかもカデンツァとは作曲家の思想が反映する箇所だ。だとすれば、ここで違和感が生じたとしたら、従来の演奏スタイルが間違っていたということになろう。おそらく、名だたる作曲家がこの作品にカデンツァを書きつけた当時、すでにこの作品はベートーヴェンのイメージよりも遥かにゆったりと懐古的に演奏されていたはずだ。だからこそ作曲家たちもカデンツァをその延長線上で書いたのだ。もし、そうであるなら、イザベル・ファウストの軽やかで遊びに満ちた演奏は、ベートーヴェン自身が書いたカデンツァをヒントに作品像を一新させたと言えるのかもしれないのだ。

※譜例1:ベートーヴェンによるピアノ協奏曲編曲版のマーチの箇所

 

譜例2:フィデリオ第一幕のマーチ

 

ファウストにはこの確信があったはずだ。だからこそ、終楽章でロンド主題が回帰するたびにテンポを変え遊びに遊んでも恣意的に聴こえなかったのだろう。ファウストは録音でも、また、かつて同作品を演奏した際でもここまではやっていない。テンポを動かすたびにチラッと見えた「してやったり」とでも言いたげな笑顔が実にチャーミングだった。

 

しかもファウストの演奏はただ軽やかなだけではない。第一楽章では、展開部の最後、長大な上属音の持続に乗って独奏ヴァイオリンが分散和音をカデンツァ風に展開する。この緊張に満ちた推移は、楽章冒頭の律動がフォルティッシモで爆発する再現を準備するに十分な鋭さがあった。また、再現部412小節ではハーディングの指揮と一体になってスコアにないアクセントを付ける。まるで楔を打ち込むように激しい。ここにもハッとさせられた。油断しているとこういうことをやってくる。ハーディング=パリ管もファウストに触発されたのか凄みのある音を発していた。なだらかな順次進行の多いこの作品で、提示部第二群(28小節)に現われる変ロ長調の跳躍進行では明確な対照性がある。

 

第二楽章では、美しい主題が変奏されるなか独奏ヴァイオリンに旋律が来ない。中間部にいたってようやく新しい旋律とともにヴァイオリンにcantabileが出てくる(45小節)。しかしファウストは歌わない。再弱音で漂うように鳴らす。澄み切った瞑想的な響きがする。歌おうと感情を込めないからこそ、そう聴こえてくるのだろう。曲も素晴らしいがファウストのセンスにも唸らされるものがあった。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲も優れた奏者の創意工夫によってまだまだ新しい表情を見せ続けていることは喜ばしい。

 

ソリストアンコールでは、ギュマンの無伴奏ヴァイオリンのためのアミュズマンからジーグが演奏された。透明な重音が現代音楽のように抽象的な響きを発する。しかしそれでいて音楽は身体が弾むように嬉々としている。キタラでもぜひ小ホールで札幌の音楽ファンにリサイタルを披露してほしいと感じた。

 

後半はベートーヴェンの交響曲第6番「田園」。編成は12型。管はすべてモダン楽器、ティンパニはバロックティンパニ。こちらはかなり意外だった。すでにリハーサルと本番を重ねてきているはずの曲目なのだが集中力に欠ける演奏に終始した。とはいえ、管楽器の超名手たちの独奏はそれだけでも耳のご馳走ではあったが、ハーディング=パリ管にそんな低次元な称賛の言葉を送るのはむしろ礼を失するというものであろう。

 

ハーディングの音楽構成に関して言えば、この作品を旋律的ではなく徹底してモチーフ的に捉え、それをフレーズ単位で弧を描くように鳴らすというコンセプトそのものは面白い部分もあった。しかし、いかんせん楽員が本気を出していない。モダンオケのノンヴィブラートだが1st.Vnの特定の奏者だけが盛大にヴィブラートをかけていたり、とにかく散漫。この本番に全楽員が集中しているとは言い難い状態なのだ。演奏が始まってすぐ、第一楽章で3回に渡って確保される第一主題。このダメを押すような3回目の確保に華を添えるFlの装飾(42小節以降)(※譜例3)まったく聴こえない。田園など完璧に覚えている楽員ばかりだろう。楽員が真剣に互いの音を聴き合っているだけでもこうしたことは起きないはずだ。

 

※譜例3(クリックすると拡大します)

続く第二主題は、1st.Vnのクロマティックな旋律にVcの長い音価が重なる(※譜例4)Vcは次にVnに引き継がれる。ハーディングはよく彫琢された澄んだ響きを求めているが、ここでもVn2プルトの奏者だけヴィブラートをかけており濁りが出てしまう。伴奏のリズムが徐々に細かくなり音楽が漸強される手前で濁ってしまうのはハーディングとしては想定外だったはずだ。この主題は上属和音上で始められ即興的な性格が際立つ箇所で、繊細な表現が問われる。

※譜例4

ハーディングはかつてマーラー・チェンバー・オーケストラと来日し田園を演奏している。そのときは10型でクリアな響きを明晰にコントロールし、しなやかで透明感あふれる演奏を聴かせていた。木管のモチーフの扱いももっと丁寧だった。今回はそれに比べてもかなり劣る演奏だった。欧州の名門オーケストラが来日するとたびたび起きることだが、さらに地方公演なので緩んだのだろうか。日本は首都圏を中心に連日猛烈なレベルの演奏が繰り広げられている国だ。その水準は世界有数である。そんな環境にいる日本の音楽ファンは当然耳が肥えている。旅行気分の手抜き演奏はそろそろ卒業するよう、高価なチケットを買ったファン一人一人が声を上げてゆくべきだろう。

 

曲順が前後するが、プログラムの冒頭に置かれたベルリオーズの歌劇「トロイアの人々」より「王の狩りと嵐」は、16型にモダンティンパニが3組並ぶ大編成。ベートーヴェンの「田園」と似た雰囲気で、静かに下降するVn群の主題が深い森をイメージさせる。バンダのファンファーレでにわかに静けさが乱され、低弦の脅すような響きで嵐が到来する。やがて雲が切れ嵐は治まるが田園のように感謝の歌はない。プログラム最後の田園の終楽章までお楽しみにといったところか。粋なプログラミングだった。演奏もパリ管らしく華やかで洗練されていた。

 

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