hitaruオープニングシリーズ 新国立劇場バレエ団「白鳥の湖」に寄せて
11月23/24日に、札幌文化芸術劇場hitaruにおいて、先月のアイーダに続くオープニングシリーズ、新国立劇場バレエ団「白鳥の湖」が上演された。今日の私たちが、「バレエ」という言葉でまずイメージする姿、オデットが見せる、両手首の甲の側を頭上で付けるように腕を上げ、そこから肘を絞りつつ振り下ろすあの姿、そして、それを駆使したコール・ド・バレエ、これらが、新国立劇場バレエ団の高水準の上演によって、札幌で披露された。今回の上演に関して言えば、この意義だけでもどれほど讃えてもすぎることはない。
興味深いことに、およそ400年の歴史を持つ劇場芸術としてのバレエにおいて、この振り付けが行われたのはチャイコフスキーの死後、白鳥の湖の蘇演に尽力したイヴァーノフ以降のことだ。この振り付けにはまだ100年そこそこの歴史しかない。しかし、それが今の「バレエ」という言葉と分かち難いまでに結びついている。私たちにとって「バレエ」とはこの20世紀のグランドセオリーの「白鳥の湖」を意味している。イヴァーノフによるこの振り付けがなければバレエ史において、あの「瀕死の白鳥」すら生まれることもなかったのだ。今回、hitaruで上演されたのも、このイヴァーノフとプティヴァによる20世紀のオーソリティとしての白鳥の湖だった。
ただ、この版による上演が成功した1895年、チャイコフスキーはすでに死んでいた。当時の上演は、チャイコフスキーの原作にかなりの変更を加えていた。音楽だけに絞っても、チャイコフスキーの他の曲をドリゴが編曲して挿入していたり、曲順そのものが変わっていたり、およそ、原作とは似つかない内容になっていた。もちろん、「白鳥」はこの版によって、20世紀に圧倒的な人気を得てバレエの代名詞にまでなった。しかし、繰り返し接していると、やはり、音楽の接続の不自然さが目立つ。舞台芸術とは、たくさんの人数と大がかりな装置を要するゆえに、純粋なコンサートに比べて偶然性が入り込む余地が多い。人員の都合、舞台の都合、はたまた効果的な上演にするため。近年では、こうした研究が進み、少しずつ原作の構造に戻そうという動きが出てきてはいる。今回のhitaruでの上演は、あくまでも、20世紀のオーソリティとしての「白鳥」であった。何か、先進的な問題意識を披露するようなものではない。ただ、これは批判ではない。この北海道の地に初めて新国立劇場バレエ団が上陸したのだ。ならば、このバレエ団が伝統的に大切にしてきたバージョンをまずは北海道で披露すべきと考えるのは当然だろう。
ともあれ、hitaruでのバレエ上演史はここから始まったのだ。今後の劇場の成長の記念すべき出発に同席させてもらえたことは本当に光栄だった。この劇場はこれからどのようにバレエ上演を行うのか、これからが大事だし、本当に楽しみだ。
この記事は初日を観たレビューであるが、先に断っておかなくてはならない。座席が一階最後列だったため、音楽面でもダンサーの動作の面でも厳密なことは把握できなかった。あくまで、遠くから観て感じ取れた点についてのおおまかな記録に留める。
キャストはオデット/オディールが小野絢子、ジークフリートが福岡雄大、ロットバルトが貝川鐵夫、王妃が関晶帆、道化が福田圭吾。指揮がアレクセイ・バクラン、管弦楽は札幌交響楽団。振り付けは1895年改訂時のプティヴァとイヴァーノフによる版。配布資料では、そこに牧阿佐美が改訂振付で参加したとクレジットされていた。だが、牧阿佐美バレエ団の公演で観ることができる特徴的なバージョン(映像だと1995年にアマンダ・マッケンローが客演したウエストモーランド版で観ることができる)は採用されていなかったように見受けられた。
まずプロローグに注目した。ここはブルメイステル版(1953年初演。新国は伝統的にプロローグはブルメイステル版に従っている)に従い、オデットがロットバルトのマントに包まれて白鳥に変身させられるという演出だった。同じ演出でも、何度もマントに吸い込まれそうになりながらオデットが抵抗しつつ3度の転調でついに白鳥になるという場合もある。しかし、今回のバージョンでは、マントに包まれたその瞬間、オデットが一瞬で白鳥に変身した。しかも、ロットバルトの背後に高く組まれた段の上から劇的に白鳥が浮かび上がった。大劇場でのこの演出は大きな視覚的効果をもたらした。ただ、惜しかったのは、白鳥に変身する瞬間に二短調へ転調する(冒頭はロ短調)その劇的な音楽にあまり響きの変化が聴き取ることができなかった。しかし座席位置の影響もあるのかもしれないので断定はできない。ピットから舞台の様子がモニターなどで確認できれば、オケがこうした効果的な演出に感情移入しやすいのではないかとも感じた。
第一幕に関しては、改めて言うまでもないが新国バレエ団のコールドの完成度の高さには息をのんだ。ジークフリートの学友たちが賑やかに集まる情景に続いて、最初のコールドであるワルツ。弦にもっと分厚い雲のような響きを期待したかったが、バレエは中間部の優美さ、イ長調に戻る際の快活さ、いずれも明確な表現性を持っている。続いて弦のトゥッティで王妃の到着が告げられると、場は引き締まる。ハ長調の弦楽合奏で王妃が王子に語りかける。王妃の背筋の伸びるような格調が舞台から感じられた。ヴァリアシオンの後は、不安になる王子にベンノが酒をすすめ、踊ろうと促す。王子を演じた福岡の動揺の表現、それにぴったりと噛み合うシンコペーションと弦のピッツィカートが、わずか16小節だが、次の乾杯の踊りへの気の利いたアクセントとなった。
第二幕、イヴァーノフによる振付が世界中で聖域のように守られているが、この日もイヴァーノフ版に忠実だった。湖畔の夜の空気が震えるように弦が高まるとオデットが登場する。大きく一つ跳躍し静止、そして客席からの喝采のなかで、アラベスクから上体を反らしクロワゼ。小野の静止からの絶妙な間合いが卓越している。弦の高まりからの静寂への視界が急変するような移行は本当の意味での物語の開始を思わせた。
3度目のアラベスクで王子が登場。オデットの脅え、震え、徐々に増してゆく信頼、そして好奇心、小野のオデットはクセのない腕の動きで愛らしくこれらを表現する。下手奥に登場する悪魔の気配から王子を守るために翼を大きく広げる人間的な感情の発露は、席の関係で、細かく認めることが困難だった。名場面であるので少々残念だ。
続くグラン・アダージョは、身体を二つに折り床に伏したオデットを王子が支え立ち上がり始まった。どこか儀式的で遠慮がちな二人が、少しずつ心を開いてゆくさまが何度見てもハッとさせられる場面だ。ただ、やはり、席が遠く、想像で補完せざるをえなかった。それでも、オデットが眩暈を覚え後ろに倒れるところを王子が抱き止めるポーズはどこかなまめかしさを感じさせた。オデットが持つ抒情性は、徹底的に高い技術とコントロールする知性に支えられている。優れたダンサーのオデットがどこか冷たさを感じさせるのはそのせいだが、小野のオデットは身近で愛らしい。静止、そしてそこからから動き始める瞬間の美、こういった要素よりも動きそのものの癖のない表現に特徴がある。グラン・アダージョに関しては、重心移動による身体のブレもなく、音楽のフレーズの継ぎ目を意識させないレベルにはあった。静止状態のときにも意識の流れが一貫しているためだろう。さすがにプリンシパルだ。アダージョ後半の二人が左右に身体を揺する生の希求の表現はぜひとも10列目あたりで観たかった。悲哀と恍惚が混ざり合ったような言葉にし難い表現が要求される箇所だ。
第3幕のオディールのヴァリアシオンは、プティヴァ=イヴァーノフ版に従い、チャイコフスキーのピアノ小品op.72の第12番「遊戯」の編曲を用いた、スケルツォ風のアレグロ・モデラート。このバージョンを使用すると、オディールの魔性は退き、どちらかというと、オディールはあくまでもオデットの分身なのだという印象が強くなる。音楽が愛らしいからだ。小野のオディールはまさにこのバージョンに合っていた。外向きに発露する超絶技巧や肩をくねらせた妖艶な表現よりも、第二幕のオデットの延長線上のオディールだった。これなら、32回転の超絶的な速度や勝ち誇ったような哄笑の表現は不要だ。小野のオディールは終始オデットの影が二重写しになる控え目な印象が強かった。
王子がオディールに愛を誓うと、ロットバルトとオディールが階段を駆け上がり、王子から手渡された花束を投げつける。花が上手く広範囲に散った。王子のショックよりも楽しいジョークのような印象。
終幕は白鳥たちのコールドに黒いチュチュが混ざっている。青白い舞台に白一色が美しい場面だが、どのような意図があるのか。エンディングはこの版に従い、王子とオデットの愛が悪を滅ぼす。白鳥たちの元へ王子が帰ってくると、王子がオデットを裏切ったことを知っている白鳥たちがオデットを隠す。しかしオデットは王子を許す。そして二人が手をとると愛の力で悪魔がたちまち力を失う。手を取り合った二人に押し戻され湖に沈められる。愛が悪を打ち負かす勧善懲悪の白鳥。王子がロットバルトと決闘をはじめる演出もあるがさすがに唐突なのでこのほうが好ましいだろう。終結は、高音域の弦がロ長調の主和音のトレモロで凄まじい輝きを放った。圧倒的な勝利感だ。一階後方席でも会場が光に包まれるような感覚に襲われた。ロ短調からロ長調へ、まるで半音低い「運命」のようだった。
ちなみに、このエンディングは、1895年のこの版以前のチャイコフスキーのオリジナルではオデットと王子が湖に身を投げ、湖に悲しく光が差し込む。演出によって天国で二人が結ばれたり、ただ、死のみが描かれ、万物の無常を思わせるように日が昇ったりする。チャイコフスキーの死後に改変されたプティヴァ=イヴァーノフ版の特徴は何よりも地上で二人の愛が悪を打ち負かすところにある。
1895年のプティヴァ=イヴァーノフ版が上演された同じ年、帝政ロシアでは、アレクサンドル三世が死去し、ニコライ二世が即位していた。1917年のロシア帝国崩壊に向かって、世界大戦に向かって、帝政は大きく揺らぎ始めていた。プティヴァ=イヴァーノフのバージョンが「外」の敵を打ち負かす内容になったことにはおそらくこうした政局と関係がある。悪はあくまで「外」にあり、滅ぼさねばならないという世界観に誰もが酔いしれることができるからだ。それが必要とされていたのだ。
しかし、チャイコフスキーの原作ではオディールはあくまでもオデットのアルター・エゴ。もう一人の自分だ。ポジに対するネガの位置にある。オデットとオディールとは誰もが内に宿している二面性なのだ。悪は内にある。
プティヴァとイヴァーノフの版が20世紀に隆盛を極めたことには相応の理由がある。20世紀は戦争の世紀だった。前半は人類が危うく滅びかけた世界大戦、後半は冷戦。生きることは「外」の敵を撃退することだった。しかし、現在は21世紀。人類の危機を引き起こしたのは、外なる敵ではなく、我々全員が自分自身のうちに秘かに飼いならしている欲望だ。このどうにもならない暴力性に、誰もが無視できない事実として向き合うことが求められているのが現在だ。多様性、差別反対、持続可能性、エコ、こうした流行語は自身の内面との格闘を要請するのでなければ表層のトレンドに終わる。あるいは、「バカにされてもキレイごと言ってる自分がスキ」という青臭い自分探しに終わる。悪と闘うとは、外部の敵や反対者を排斥することではない。私たち自身の内部にひそむ本性と一人一人が闘うことだ。チャイコフスキーもこの「白鳥の湖」で訴えている。愛とは外なる悪を打ち負かすことなのか。断じて違う、と。
このバージョンには20世紀の時代性が刻印されている。これからはこのバージョンは昇り切った階段として捨てられる必要がある。hitaruは新しく誕生した劇場だ。将来、この上演が、劇場が飛躍するための、いわば幅跳びの踏切り板だったと振り返るときが来ることが望ましい。進歩は背後にある。後ろ向きに、手前に遡及することでチャイコフスキーという水脈に皆が突きあたることが進歩だ。そのように復古的進歩を遂げた「白鳥の湖」がこの北海道の地でも上演され、現代の空気を揺らし、舞台芸術を通して人間や社会についてみんなで考える機運が出てくることを切に望む。ロットバルトとは、目を背けたくなるような私たち自身の黒い部分に他ならないのだから。