札幌劇場ジャーナル

【STJ道外編】進化する魔術師 ―デュトワ、東奔西走! 大阪フィル・新日本フィル演奏会レビュー(執筆:平岡拓也)

久しぶりに我らがシャルル・デュトワが「観客の前に」帰ってきた。

2016年冬以来、東京で彼を聴く機会が失われてしまい、19年に大フィルのラヴコールで鮮烈な同楽団デビュー。5月定期の『幻想交響曲』に続いて、代役登壇の『サロメ』で辣腕を揮ったことは多くの好楽家の記憶にもいまだ新しいだろう。当然再共演が企画されたが、2020年、21年ともにコロナ禍により中止。今年は文字通り3度目の正直で、当初の予定通りのプログラムでデュトワと大フィルの再々共演が実現した。今回の来日でデュトワは東京での舞台にも復帰し、新日本フィルと久々(48年ぶり!)の邂逅を果たした。

今回、短期間で大フィルと新日本フィル、2つのオーケストラでデュトワのさまざまなレパートリーを聴いたわけだが、確信を持って言えることがある。間違いなく彼は「自分の音を持つ」指揮者であり、どのようなアンサンブルにおいてもその音を引き出すことに注力し、結果として「引き出してしまう」力量を持っている、ということだ。近年、オーケストラに柔和に接しフレンドリーな音楽作りを行う指揮者は多い。指揮者とて人間、次の仕事がある。無理もない。ただ、一介の聴き手としては、そのような指揮者が増えた結果、似たような音楽創りが増えたようにしか思えない。これは聴き手としては正直つまらない。その点デュトワは(フレンドリーかどうかは知らないが)、非常にしつこい。妥協を許さない。とにかく彼の音を粘り強く引き出そうとする。彼の方向性に楽員を引き寄せ、彼の理想とする音楽の実現に向けて最大限の努力させてしまう。このような「しつこい」指揮者は本当に少なくなったと思う。

デュトワがどのような音楽創りを行ったのか、具体的にみていこう。まずは大フィルとのプログラム初日から振り返る。演奏会前、大阪フィルハーモニー会館の冷房が故障しやむを得ず酷暑の中稽古が行われた、とSNS上のレポートがあり、いくら元気そのもののデュトワとはいえ大丈夫かと思ったが、全く杞憂だったらしい。19年の初共演で驚異的な冴えを見せたデュトワ、コロナ禍でも容赦なく時は進むので彼も齢85を迎えているはずなのだが舞台袖から指揮台までの歩み(美しい姿勢!)も、その厳しい音楽造形も、些かの衰えも感じられない。

冒頭のハイドン第104番(『ロンドン』)から顕著だった。序奏では厳めしいほどに弦楽器のフレージングを徹底させ、第1ヴァイオリンに常に睨みを効かせ方向性を指し示す。主部に入ると響きを開放するが、中低弦の拍節感は常に保たれている。第2楽章は簡潔な変奏が魅力だが、デュトワは楽譜から最大限にリズム的な魅力を引き出し音楽を弛緩させない。調性のスパイスが効いた箇所では膝を打ちたくなる。「痒いところに手が届く」とはまさにこのことだ。終楽章の推進力も彼ならでは。一呼吸遅れて入ってくるパッセージの入りの鋭さ、コーダの整然とした展開など情報量も多い。ピリオド全盛となった今もはや懐かしさすら覚えたが、モダン楽器によるハイドンの一つのお手本のような立派な演奏だった。「良いハイドンを聴いた」というよりは「よくこれだけ徹底して仕上げたな」という印象が先んじてしまったのもまた事実だが。

©飯島隆

先程の管弦楽によるプッシュアップのようなハイドンで、オーケストラは十二分に温まった。ラヴェルでは一転、時折柔和に解放しつつ精緻に積み重ねていく。『クープランの墓』では管楽器に高度な技巧が要求される。とりわけオーボエ・ソロには高音域が頻発するうえ、伸びやかに歌う(ように聴かせる)ことが求められる。大フィルの木管は苦しい箇所はありつつ大健闘していた。この曲ではデュトワは厳格なコントロールをやや抑制、和声のバランスや響きの重心を自在に操ることに執心していた。例えば、第3曲後半の物憂げな半音階の拡げ方はどうだろう。そして、全4曲に共通していたのが楽曲結尾での脱力の美だ。この響きの収斂を聴き、ああデュトワの音だ、と懐かしさすら覚えた。

©飯島隆

前半だけでも満足度は高かったが、彼のspécialitéたる『ペトルーシュカ』は更に踏み込んだ表現の連続だった。彼の指揮はいよいよ雄弁さを増し、仮に両耳に栓をしていても指揮姿だけ観ていれば音楽が響いてくるのでは、と錯覚させるほどに鮮やかだ。変拍子の処理も朝飯前といった様子。情景が浮かぶこと、浮かぶこと。「ムーア人の部屋」でオーケストラが一瞬迷子になりかけたような場面もあれど、響きの多彩さに目を見張る。細部の瑕よりもこの響きの引き出しの多さがよほど重要だ。「夕刻の謝肉祭」で、場面が変わりサーッと眼前が拓けてゆくスケール感にも胸躍る。またこの市場の場面で登場する多種多様な舞曲のリズム処理の見事さ。コサックダンスは軽快に、熊を連れた農夫の踊りはテューバのソロを巧みに聴かせつつ重厚に。終盤、ムーア人に斃されたペトルーシュカと群衆の描写の生々しさも抜かりない。あくまで美は保ちつつ、作品が内包する冷徹なまでの「死」の描写を抉り出してみせる。大フィルも、フレッシュな管楽器奏者の活躍が続々決まり大変な聴き応えだった。3年前の『幻想』の時に比べても、楽団の世代交代が進み、アンサンブルが向上しているように思える。是非デュトワとの継続的な共演を望みたいところだ。

続いては新日本フィルを振っての東京凱旋2公演を回顧したい。楽団関係者に訊いた限りでは、やはり新日本フィルでもいくつかのパートを抜粋して音楽の重ね方の試行錯誤を行うなど、緻密にして厳格なリハーサルをデュトワは行ったようである。それは根気のいる作業であるが、どのような果実をもたらしたのだろうか。

「彼の音」が新日本フィルでも健在だ、と感じたのは第1夜のフォーレの冒頭からだ。拍節感は常に厳しく保たれ、その上で掛けられるいくつもの揺さぶり。呼吸は繊細無比だが、フレージングがだれず、肥大しない。約16型と大ぶりな弦楽器なのに。これらの特徴は、大フィルの項でも述べたようなことだ。後半ドビュッシー『海』は、鮮やかな音絵巻だが険しく、終曲は特に重心が低い。岸壁に打ち寄せる波の一粒まで見えるようなと言える精度ではなかった(特にオーボエ!第2曲のフライングは唖然とした)のは惜しいが。白眉は『ラ・ヴァルス』で、演奏会の掉尾としてどこまでも狂おしく盛り上がるグロテスクなワルツを奏でるオーケストラ、ギリギリまで煽っていく指揮者。この噎せ返るような色気、本当に85歳の指揮者の音楽なのかこれは!『海』同様更なる音色美は求めたいが、圧巻だった。

(C)堀田力丸

前半のラヴェル『ピアノ協奏曲』でソロを弾いたのは、中之島の『ペトルーシュカ』で繊細なピアノパートを受け持った北村朋幹。彼の音色への鋭い拘りは非凡だが、中規模ホールで聴きたい音量の奏者だ。池袋の大ホールではニュアンスが届き切らなかった。第2楽章冒頭、一つ一つの打鍵が空中にふわりと舞い上がるような運び、およびアンコールの武満徹が印象に残った。独奏以上に感銘を受けたのはやはりデュトワの技で、両端楽章でのスウィング感は言わずもがな、第2楽章の収斂の美しさだ。まるで葉巻の煙がふわりと天井に上り霧散してゆくかのような視認性さえ有した音楽を奏でていた。アルゲリッチを筆頭に数々の名ソリストを迎えて何百回も振り、譜面の隅々まで熟知しているであろう匠ならではの「引きの美」だ。

(C)堀田力丸

(C)堀田力丸

新日本フィル第2夜、オーケストラの本拠地たるすみだトリフォニーホールでの公演では、魔術師は鬼神に変貌した。チャイコフスキー第5番は、超辛口に燃焼し尽くす。正直この曲は、20193月のインバル/都響(ジャーナルでも取り上げていた)の極北の演奏で個人的に完結していたのだが、まだこのような掘り下げの余地があったとは思わなかった。しかもそれを、洗練や典雅さで鳴らしたデュトワの棒で聴くことになるとは!第1楽章の序奏は極めて荘厳に始まり、音楽が動き出しても重心は低く、金管は鉄鎚のように重い。第2楽章も甘さはなく、狂おしく歌う中でも常に低弦の拍節は強靭に刻まれている。結果、音楽が昂まるとスケールも悠々と拡がっていくのだ。第3楽章もフレージングがコントロールされ尽くした不気味なワルツで、ホルンのゲシュトプフも決まる。アタッカの第4楽章は派手さや軽薄さとは無縁で、低重心のまま限界までオケと音楽そして自分自身に鞭を打ち込み続ける。練習番号Dで木管を鮮やかに浮き上がらせてリズム音型を強調し、弦楽器は瞬間的に抑制するといった技も光ったが、あくまで基本は正攻法だ。それでいてこの説得力!

(C)K.Miura

デュトワの全力投球&完全燃焼に対し、オケは死力を尽くして追従したという趣だ。彼の棒の変幻自在を即興的に受け止め、愉しみさえするマルコス・ペレス・ミランダ(クラリネット)のような素晴らしい奏者もいるが、必死で音楽を追い続けるあまり全体の音色美はかなり犠牲になっていた。何故かこの日は第1夜よりも弦楽器のプルトも少なく(14型)、管打楽器が目立つ一方で弦が痩せて聴こえ、濁りが生じていたのは勿体なかった。

(C)K.Miura

順番が前後するが、前半に置かれたバーバーとショスタコーヴィチは純粋によい聴きものだった。緻密に声部を積み上げていきカタストロフへ到達するバーバーは弦だけとは思えない音色の幅があったし、ショスタコーヴィチ『チェロ協奏曲第1番』ではデュトワに一歩も怯まず堂々と主張する上野通明のソロが非凡。同世代で頭一つ抜けた存在であろう。どこまでも巧く、そして歌うよりは冷徹に突き放したような所のある音楽性。アイロニカルなショスタコーヴィチにはうってつけだ。オーケストラもこの時点では第1夜よりコンディションがよかった。

(C)K.Miura

2019年に久々にデュトワを聴いた時に、「ああこの人はこんなに凄かったのか」と思い知らされた経験をした。それまで筆者はN響で毎年デュトワを聴いていたが、筆者が聴き始めた頃(2009年頃)にはすでにデュトワとN響の関係性は円熟しており、デュトワが多くを語らずともオーケストラが彼の望む方向性を実現するという場面も多かったと思われる。デュトワとN響が繰り広げた数々の演奏は疑いなく「珠玉のオーケストラ芸術」であったが、その芸術は指揮者による強力な牽引によるものというよりは、長年の共演の蓄積により、両者の音楽的個性が不可分に結びついた結果としてもたらされたものであった。一方で19年に彼が指揮した大フィルは、まったくの初共演である。「デュトワの音の具現化」という観点では完全にゼロの状態から、3日のリハーサルでサウンドを変貌させてしまった。ゆえに彼の音楽的能力の高さに驚愕し、改めて「デュトワ恐るべし」となったのだ。

(C)K.Miura

今回も同様の「響きが変わる」驚嘆を味わったが、同じ「驚き」でも、オーケストラによって違いがあった。大フィルは合奏精度の向上を肌で感じ、新日本フィルは棒の「魔術」ではカヴァーしきれない弱さが見え隠れした。さあ、来月に迫ったサイトウ・キネン・オーケストラとの『春の祭典』はどうなるのか。望みうる最良のアンサンブル集団で次はどんな色彩美が煌めくのか、早くも胸が沸き立つ。

(平岡 拓也)


<著者紹介>

平岡 拓也(Takuya Hiraoka

1996年生まれ。幼少よりクラシック音楽に親しみ、全寮制中高一貫校を経て慶應義塾大学文学部卒業。在学中はドイツ語圏の文学や音楽について学ぶ。大学在学中にはフェスタサマーミューザKAWASAKIの関連企画「ほぼ日刊サマーミューザ」(2015年)、「サマーミューザ・ナビ」(2016 年)でコーナーを担当。現在までにオペラ・エクスプレス、Mercure des Arts、さっぽろ劇場ジャーナルといったウェブメディア、在京楽団のプログラム等にコンサート評やコラムを寄稿している。

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