東京二期会 「ドン・カルロ」レビュー ‐終わってゆく世界で、君たちはどう生きるか‐(執筆:多田 圭介)
1.アフター2016の世界としてのドン・カルロ
そり立つ壁、白と黒に二分され敵と味方に明確にクリアカットされた社会、歴史への態度を徹底的に脱臭されたモノトーンの色彩。ロッテ・デ・ベアが16世紀の歴史絵巻であるドン・カルロで表現したのは、よりによって、世界から歴史への対峙が徹底的に後退した2016年以降の世界だった。殊に「壁」は、たんにアメリカとメキシコの国境の物理的な「壁」であるにとどまらない2016年の象徴である。2016年にアメリカ人は、世界を「開く」と宣言したヒラリーではなく「閉じる」と宣言したトランプを選んだ。さらに、出自や属性に関係なく自由に人生を選べるようにと世界を(部分的にではあれ)開くことを目指したEUからイギリスが離脱した。2016年は「こういう世の中であってほしい(あるべきだ)」という想像力が現実に決定的に負けた年だった。ちょっと難しく表現するならポストモダン化が一気に進行した年だったのだ。
ロッテ・デ・ベアは、2016年以降の「閉じてゆく世界」、つまり「終わってゆく世界」の閉鎖性、暴力性、諦めを完膚なきまでに描き切ってしまった。ただ、このプロダクションはシュトゥットガルトで初演されているが、他ならない日本に、そして日本の地方都市に移植されたことで2段階でテーマが変容した。
2016年に世界で起きたことがなぜそんなに大ごとだったのか。日本ではさほどその意味が理解されなかったことも含めてもう少し説明しておこう。日本に移植したことで否応なしにテーマが変容する背景には何があるのか。イギリスが離脱したEUとは何か。何を目指したものなのか。ひと言でいえばこの試みの理想には「移動の自由」がある。国籍や出身地や属性にかかわらず、自由に、どこにでも住めてどんな職業でも目指すことができる。これが世界規模で実現されたら、「あいつは何人だから」とか「どこそこ出身だから」とか関係なく「人は人」として生きることができる。いわゆるコスモポリタニズムである。だから、EUとは人類が最終的に目指すべき社会を部分的に先取りした試みなのだから、イギリスのEU離脱とは、ユーラシア大陸の西端のローカルな問題なのではない。
ところが、そのEUのコアメンバーであったイギリスが難民問題で苦戦して、離脱という選択をしてしまったのが2016年だった。開いてゆく世界を夢見たイギリスが、現実に負けて世界を閉ざしたのだ。なぜこれがヨーロッパでは大問題だったかというと、彼らにとっては「門戸を閉ざすといっても、本来は受け入れる《べき》」という確かな感覚があるからだ。ここには日本人との微妙な世界観のズレがある。日本人的には、「そんなに困るなら受け入れなければいい」となる。しかし彼らにとってはそうではないのだ。現実的な事情がどうあろうと、たとえ損しようとも、それよりも「受け入れる《べき》」という感覚を優先してきたのがヨーロッパなのだ。彼らにとっては「自由」はそれほど価値があるものなのだ。トランプ現象のインパクト、その日本的感覚についてもまったく同じことが言える。
ロッテ・デ・ベアが描いた人間は、そんな閉じてゆく2016年以降の世界で、開き直って閉じる。閉じて、セクシャリティのことだけ考えてどんどん濃密に閉じる。なにせ、第1幕のカルロとエリザベッタの二重唱で2人は服を脱ぎながら即座にベッドインする。音楽的には最大の聴かせどころであろう第4幕のフィリッポの独白では、彼は不倫しながら逸楽を貪りつつ内面を吐露する。そのフィリッポに対峙する大審問官は90歳の盲目ではなく、精力絶倫の権力者だった。もう、常時発情している始末。加えて、スペインの王室(実質的にはフィリッポ個人)に不穏分子と判断されると、秘密警察が出動して直ちに「最初からいなかった人」とされる。敵と味方を峻別して、「壁」で異分子をどんどん排除して世界を閉ざしてゆく。世界は終わってゆくのだけど恋愛でもしてやりすごしましょうと云わんばかりに。はたして、その末に何が待っているのか。舞台はそれも汲み取る。
敵を特定して排除し続ければいつか原初の快さが回復されると考える人の世界は敵で満たされる。そうして世界を「閉じる」人にとっては、やがてすれ違う人も、触れるものも、すべてが潜在的な敵になる。そうして最後には「自分自身」が自分にとって最大の「敵」となる。自分自身ほど意のままにならないものはないからだ。第4幕で、フィリッポがロドリーゴから「世界の半分はあなたに服従しているのに、あなた自身は意のままにできぬとは」と蔑まれる。このセリフが、世界を閉ざしてゆくロッテ・デ・ベアの舞台ほど効いたのはまず稀であろう。エンディングも強烈だった。世界を開くようこの世界の「外部」から声を発する修道士が、不快をもたらす敵と一瞬で看做され、血祭りにあげられ、こともあろうに無邪気な子供たちにとどめを刺される。声は亡きものにされる。唯一の理想主義者のポーザ侯爵ロドリーゴの、壁にもたれかかった惨めな死に様はどうだろう。あの断末魔の痙攣から「終わってゆく世界」の閉鎖性を読み取るのは容易だろう。
面白いことに、前回2021年に東京二期会が本公演と同じhitaruで上演したオペラ、宮本亞門演出の「魔笛」は反対の世界観だった。初めは異質な他者の声(動物の声で表現された)が、根気強くコミュニケーションを続けることでやがて「言葉」として聴き取られる。「世界を開くべきだ」という正しいメッセージに貫かれた舞台だった。だが、やはり2016年以降の世界の絶対的な現実に対しては、根本的なところで批判力を欠いていたのも確かだった。どこか「オリンピック、みんなで応援しようぜ」みたいな空疎さがあった(前提として宮本&二期会の「魔笛」は素晴らしい舞台だったが)。
現在、世界の文化現象は、「空疎でも世界を開こう!」というやや24時間テレビ的な建前主義と、露悪的に閉じる世界を描く本音主義に分かれているところがある。例えば、日本では、宮崎駿も村上春樹も目を逸らした震災後のスカスカになった日本を真正面から引き受けて、結果、物語までスカスカになったのが新海誠の「すずめの戸締り」だった(震災後の絶望と希望を描いていると言っている人は創作物についての基礎的リテラシーが根本的に欠如している)。ロッテ・デ・ベアは、本音主義的にこれを足蹴にする。さらに、この2つに対するカウンターは(日本では)宮崎駿の「君たちはどう生きるか」なのだ。あれは、「もうこの先世界は終わってゆくんだけど、おれ、勝ち逃げ世代だし、じゃ!」って映画だった。2020年代現在の文化現象はこの3者できれいに三角形が描けてしまうところがある。だが、この3者には、「まだ」歴史への対峙がある。「諦める」という仕方ではあれ、視点はある。ここから歴史への態度が完全に抜け落ちると70億総サプリメント化し、映画でいうとアルタミラピクチャーズになり、アニメでいうと「けいおん」になり、小説でいうと津村記久子になる。今回ドン・カルロを観て、オペラをはじめとする舞台演出にこれが出てくるのは時間の問題であるように感じた。歴史への態度を脱臭されたモノトーンの舞台からそこまでは、もうほんの一息だからだ。サプリメント文学の特徴は、近景、中景、遠景でいうと、近景しかないのが特徴だ。村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は近景と遠景が短絡する世界観(たんなる個人の自意識が世界の命運に直結する「セカイ系」)を示したが、今の村上には近景しかない。ただ身の回りのこまごました出来事と自意識だけが描かれる。舞台演出までもがこのようにサプリメント化したとき、果たして、舞台という巨大な装置を弄して表現すべきものは、私たちに残されているのだろうか。考えると暗然とした気持ちになる。と同時に不可避の流れであるようにも感じる。
2.シーニ&東京フィルと東京二期会の音楽
もう一つ、筆者がこの舞台に触れてアンビヴァレントな気持ちになったのは、音楽はかなりのレベルであったことだった。特に指揮のレオナルド・シーニと東京フィルの音楽は、かつてhitaruのピットから聴こえたことがない水準だった。シーニの指揮が優れているのと、日本のイタリアオペラを古くから支えてきた東フィルの両方の力ゆえだろう。普段hitaruのピットには札響が入ることが多いが、もちろん札響も優れたオーケストラではあるが、ことオペラに関しては経験の差が出る。
今回の公演では、1867年のパリでの同作初演のときにすでにカットされて、その後の複数ある改訂版でも収録されなかったes-mollの前奏曲が採用された。これが始まった瞬間に、優れたオペラの公演特有の胸が高鳴るような空気が会場に満ちた。重たい足取りのような冒頭のアポジャトーラ、5小節からの和音の暗く陰鬱な空気感。一瞬でヴェルディの音楽の世界に引き込まれた。シーニ&東フィルは以降も細かいテンポの動きや血を吐くような魂の入った音色で、希望に燃える心や、焦燥、絶望を見事に音にしていった。スコアの指示より全体的に速めだったが、長い5幕版をダレずに聴くためにはそれも有効だった。
正直に言ってこれまでにhitaruで上演されたオペラ公演は、どこかお役所で行事を取り行っているような雰囲気が拭いきれなかった。いつもそれが付き纏っていた。このままでは北海道のお客さんに「なんだ、オペラってこんなもんか」と思われてしまうのではないかという危惧が筆者にはいつもあった。だが、今回は最初の音が鳴った瞬間にワクワクした。この会場では初めての体験だった。客席はガラガラだったので、お客さんが醸し出す高揚感ではなく、音楽そのものの力が確かにあった。東フィルはこの公演のとき別の公演も2つ重なっていて3隊に分かれており、札幌では相当な人数のエキストラが入ったはずだが、それでもモチーフを的確に歌い、細部まで血を通わせた演奏はさすがだった。普段、新国立劇場でピットに入っているときよりも高い水準だったほどだ。
また合唱も随所で輝いていた。第1幕のフィナーレは、カルロとエリザベッタ2人の絶望(ハ短調)に、晴れ晴れとした合唱(ハ長調)が重なる。歓呼のなかに絶望を浮き彫りにするこうした手法は、同作に続くアイーダの第1幕第1場でもみられるヴェルディの真骨頂である。声楽アンサンブルと合唱の重層的な音楽の濁りのない立体性はさすがだった。東京二期会は、2014年にもドン・カルロを上演しているが、そのときはイタリア語の5幕版、いわゆるモデナ版だった。こうした蓄積が生きてきているのもあるだろう(※ただ、2014年の公演でピットに入ったのは東フィルではなく都響)。
歌手では、エボリ公女を歌った清水華澄が印象に残った(※本記事は10/8、札幌での2日目の公演のレビューである)。第2幕の「ヴェールの歌」での、正確な音符捌き、そしてエボリらしい驕り高ぶる歌いっぷりも文句のつけようがない。清水は札幌では、2018年のhitaruこけら落とし公演のアイーダでアムネリスを歌っているが、アムネリスとエボリ公女には、どちらにも他人を陥れることを厭わない狡猾さと強さがある。アイーダはドン・カルロの次に書かれていて音楽に共通する要素が多いこともあり、今回の舞台を観ていてそのときのことが頭を過った。清水のエリザベートに対するアゴをしゃくり上げて嘲笑するような演技も素晴らしい(アムネリスのときもそうだった)。肝心の第4幕でやや調子を落としたのは少々惜しかったが立派なエボリだった。
ただ、エリザベッタやカルロ、ロドリーゴを歌った3人には、「愛の主題」や「友愛のモチーフ」に含まれる3連符をもっと鮮明に歌ってほしいと感じた。技術的に無理があるというよりも、あまり丁寧に歌っていないように聴こえた。作品を貫く重要なモチーフなのでもう少し大切に歌ってほしい。大審問官は登場場面も少ないが彼の存在は同作の背景のすべてを握っているとさえ言える重要な役だ。第4幕でのフィリッポとのバッソ・ブロフォントとバッソ・カンタンテの2人による丁丁発止は最高の聴かせどころとなっている。ここではフィリッポが象徴する「王権」と大審問官が象徴する「教権」という現世的権力が拮抗する(ただこの演出では発情中の権力オヤジだったが)。だからこそ、大審問官には世界を牛耳らんとばかりの深々とした声が必要なのだが、かなり印象が異なっていた。フィリッポも美声ではあったが、第4幕のアリアを若々しい声で滑らかに歌っており、このアリアの悲哀は伝わらなかった。権力を象徴するこのバス2人が世俗の頂点で拮抗するような世界観を表出できれば、その現世の「外部」としての修道士が、最後に血まみれになって登場するこの演出にもさらなる凄味が出たことと思う。指揮とオケ、合唱がよかっただけに歌手の出来がやや惜しく感じられた。
3.舞台公演のこれからに向けて
と、音楽について書いていると、やはり演出との世界観の食い違いのほうが気になってくるのは致し方ないか。デ・ベアの終わってゆく世界。これと、ヴェルディらしい理想や友情に燃え上がる心、悔い改心するエボリの心情。こうした魅力がストレートに伝わってくるシーニ&東フィルの音楽。オペラの読み替え演出は、この「食い違い」にも意味を持たせるところまで考える時期に来ているだろう(この意味でも2021年の宮本亞門「魔笛」は優れた公演だった)。
さて、この抗えない絶対的な現実を描いたロッテ・デ・ベアの舞台は、やはり日本では理解が難しかったようだ。東京では盛大なブーイングが出たという。そもそも2016年にヨーロッパで起きたことがなぜそんなに大ごとであるのかは日本ではほとんど理解されていない。イギリスは難民問題がネックとなって門戸を閉ざした。だが、難民を「受け入れる」と「受け入れない」は彼らにとっては等価な選択ではなかった。だからブレクジットはショッキングだったのだが、日本ではこれがなかなか理解されない。損得より価値があるものを信じていないところがある。違う言い方をすれば、日本はそもそも十分に近代化されなかったので、ポストモダン(後‐近代)化の過度な進行が孕む脅威が、日本人にとっては問題として見えてこないところがあるのだ。クリストファー・ノーランが映画「ダークナイト」で止めることのできないポストモダン化の脅威を映像化したときも、そのインパクトが日本では正しく受け止められなかった。だから、この舞台が日本に移植されるとテーマそのものが変容してしまうのは当然のことと言える。日本では、第1幕のカルロとエリザベッタの二重唱で2人が衣服を脱ぎながらベッドインする箇所も「下品すぎる」など「度合い」や「程度」の問題として語られてしまった。筆者がたまたま目にしたものだと、オペラの専門家ですらそうだった。セクシャリティのことだけ考えて世界を閉じてゆくというこの舞台が切り取った2016年以降の絶対的な現実が見えていないのだ。ブーイングも短絡的な批評も、この舞台が歪みなく映し出した「日本」だと言える。さらにこれを日本の地方都市である札幌に移したことでもう一つの問題、共同性が持つ無自覚な排除性と暴力性が可視化されたのだが、それについては第1回hitaruオペラプロジェクト「フィガロの結婚」のレビューで論じたのでここでは繰り返さない。こちらを参照してほしい。
2020年代の現在の文化現象は、デ・ベア的な本音主義と宮本演出「魔笛」的な建前主義と、宮崎駿的な「諦め」の三者できれいな三角形が描けてしまうところがある。だが、こうして整理してみるとどれにも乗っかるわけにはいかない。この三角形が描けてしまうことの意味をよく吟味しつつ第4の道を模索することが必要だ。ヒントは至るところにある。文化現象の今後のためにももう少し論を展開しよう。
加藤典洋の『敗戦後論』がちょうど参考になる。この本は国内の戦没者を追悼するという極端に世界を閉ざす方向に振れた閉鎖的な本だと読まれがちである、だがその射程はもっと広い。加藤は、もちろん「何人だからとか、出身地がどこそこだから」のような社会的属性で個人を見ることはよくないと分かっている。何人でも人は人。だが、そういうコスモポリタニズムに向かうためには、まずは日本人固有の思考というものがどのようなものなのかをよく知る必要がある。加藤はこの順番で考えている。日本人的な思考をちゃんと確認した上で、それをどう解除してゆくか。だから先に戦没者を慰霊しようという話も出てくるのだ。
特定の共同体(「北海道」とか「〇〇会社」とかあらゆる意味での共同体)の空気というものは「語り口」で決まってくるところがある。だから、そこに別の語り口をぶつけることでそれを解除することというのは不可能ではない。その可能性が「文化」の力である。これが目的だからこそ、自分たちの共同性をまずは確認することが大事になる。だから歴史を保存するような活動もそれはそれで大切になってくるのだ。その上でそれを解体する。加藤はそう考えている。もちろん、その土地固有の習俗や慣習の違いはあっていいし、あったほうがいい。そのほうが世界は美しい。だが、それが個人の公共的な権利の制限として機能することはあってはいけない。共同性のこうした悪しき側面は少しずつ解除していかなければいけない。
日本固有の思考とは別に、地方ではもう一段階複雑になる。「都市」とはその語義から「開く」ものであり、「地方」とは「閉ざす」ものであるからだ。だから、地方ではますます思考が閉じる傾向が強くなる。例えば、人間を評価するときに「どこそこの出身だから」とか「誰それと繋がりがあるから」という排除性を尺度にする。そのために共同性を確認するということを(無自覚に)やってしまいがちなところが余計にある。加藤の『敗戦後論』には、こうした思考を解体するためのヒントが豊富にある。2020年代以降、文化現象が向かう方向性の一つのヒントはこのあたりにあるように思える。そのための梯子としてであれば、ロッテ・デ・ベアの舞台が日本で、そして地方都市の札幌で上演されたことの意味は小さくない。また筆者は、世界がその方向に歩みを進めるためにほんの少しでも意味があると信じてこうした記事を書いている。「語り口」に別の「語り口」をぶつけることで共同性がその裏面で発動してしまう排除性は解除できるはずだからだ。文化にはその可能性がある。ということは、文化とは決してたんなるサプリメントなのではない。この信念こそが「不要不急」の文化を2020年代以降の未来に繋いでゆくためのキーとなる。
(多田圭介)