札幌劇場ジャーナル

札響 第630回定期演奏会レビュー

コンサートレビュー

2020年9月25日(金)札幌コンサートホールKitara (大ホール)

広上淳一が指揮をした札響定期を聴いた。この定期は本来は首席指揮者のバーメルトがブラームスのドイツレクイエムを振る予定だった。感染症への対応のために、まずプログラムが当日の曲目に変更になり、直前に指揮者も広上に変更になった。札響は、8月から名曲コンサートとhitaruでの新定期は再開させていたが、kitaraでの定期演奏会は、札響が演奏会の自粛を強いられた後これが初。つい先日、川瀬賢太郎が指揮した名曲コンサートも本当に素晴らしかったが、それに続いて本公演も記憶に残るコンサートとなった。プログラムは、シューベルトの「ロザムンデ」序曲、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番(Pf.伊藤恵)、休憩を挟んでストラヴィンスキーの管楽器のためのシンフォニーズ、そして最後がシューベルトの交響曲第5番。

 終演後、ファンに対する広上の挨拶があった。内容はごく儀礼的なものであったが(無論、役割をよく自覚してのものだが)、そのなかで広上はこんな言葉を使った。自分と札響の役割は、客席に「癒しを届けること」、「幸福を届けること」である、と。この言葉も、もちろん、現在の状況から出てきたものではある。だが、それを差し引きしても、広上という音楽家の本質をよく表わしているように感じられた。

 「癒し」と「幸福」とは、イコールではない。「癒し」が「幸福」の一部をなすことはあり得ても、その逆はない。幸福の本質を追求すれば、たんなる気休めの「癒し」は幸福の本質からは外れてゆく。だが、広上の音楽には、何か、「音楽を聴いているときくらい厳しい現実を忘れようじゃないか」、というところがある。心の傷を「癒す」ことが音楽の役割であり、それが音楽のもたらす「幸福」であるというように。広上の音楽には、根本のところで、「癒し」と「幸福」が等号で結びつくような側面がたしかに感じられる。

札幌交響楽団提供

 筆者は広上の音楽を聴くと、よくこんなことを連想していた。放課後に、ただたまってお喋りをする楽しさ。モラトリアムが何かのためにあるのではなく、モラトリアムそれ自体が目的であるような楽しさ。むしろ、それ自体が一番意味のあるものというか、一番目的とすべき豊かなものとして機能するんだ、というような。筆者は広上のこうした側面を、(勝手に)「学園祭的な幸福観」と呼んでいた。

 しかし、学園祭的な幸福とは、そこに潜むものの犠牲によって成り立っている。クラスになじめない子、それどころか、身体に障害がある子がその輪に入ることは原理的に不可能だ。仮に聾唖者の子をクラスに混在させ学園祭を運営しようとすれば、クラスの輪は崩壊するだろう。私たちの世界にはどうしようもない断絶がある。「癒し」という気休めを、もし「幸福」と等号で結ぼうとすれば、こうした哀しい現実に目を瞑ることになる。癒しは幸福の本質ではないし、芸術のそれでもない。当然、生きる目的にもなりえない。所詮は気休めだ。しかも当日のプログラムのシューベルトの音楽は、こうした現実のどうにもならない哀しさ、決して埋めることのできない断絶の哀しさを歌っている。シューベルトの音楽は、長調で明るい曲調のときほどその哀しさが痛切になる。

 いつもは気休めのような優しさでいいんだというような広上の音楽である。だが、この日に限っては、シューベルトの音楽から、日常の幸福に潜む断絶の哀しさ、そして、それでもその幸福に癒されるときも必要なんだとでもいうような、痛切な音楽を引き出した。

札幌交響楽団提供

 プログラム最後のシューベルトの交響曲第5番は、指揮者の手腕が問われる曲目だ。実力が丸裸になる。筆者がこれまで聴いた演奏では、かのG.ヴァントの最晩年のライヴが忘れられない。厳格なヴァントの音楽が天に召される直前に重力から解放されたように響いた。対する広上&札響は、世界にどっしりと根を下ろし、現世の幸福を徹底的に愛でる。書かれた音符の隅々まで愛情を注ぎ、徹底的に丁寧に、撫でるように優しく歌う。厳しい現実から目を背けることもときには必要なんだとばかりに柔和に。しかも、広上としては常ならざることなのだが、そこに潜む断絶の哀しさが響いてくることにも、嫌でも気づかされる。

 特に第2楽章の息の長いB主題。変ハ短調で始まりロ短調に転ずると広上は繰り返されるFl、それに応えるVnFgの動機を消え入りそうな最弱音で奏でた。首席に就任したばかりのFlの川口晃の息絶えるような素晴らしい表現。表情を変えずにじっと哀しみに耐えるようだ。ここは痛切の極みだった。この癒しの時間のさなかにも、世界の裏側で苦しんでいる人がいるのだというような、世界全体の哀しみのようなのだ。あるいは、生命が息を吹き返す春の陽だまりを、これが人生で最後だという自覚とともに悦ぶような幸福の本質的な哀しさとでも表現できようか。ともかく、世界のどうしようもない、どうにもならない断絶を実感させる音楽だった。

 実は、前述のG.ヴァントもここでディミヌエンドしている(スコアはすべてppのみ)。だがヴァントは、このB主題で、過度にメランコリックになるのを避けるためにBに入るときに倍近く加速し、B全体をスッと流している。もう執着はないとばかりに。広上は真逆。深々としたテンポで、名残惜しく、現世の蜜を吸い尽くさんとする。ここにはすでに未完成交響曲の萌芽がたしかに見てとれるし、筆者にはマーラーの「大地の歌」の終楽章がこだましているようにさえ聴こえた。広上は終演後の挨拶で「シューベルトの天上の調べ」という言葉を使っていた。だがこれは紛れもなく「地上(大地=Erde)の調べ」だ。広上は、ときに(本当に稀にだが)気休め的な優しさだけではすまない、真実の音楽を奏でることがある。かつてショスタコーヴィチの交響曲第15番を聴いたときもそうだった。あの終楽章の意識が遠のくようなVnppの主要主題(グリンカ「疑惑」の引用の)はいまも忘れることができない。それを思い出した。

 曲順が前後するが前半のベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番もオーケストラが印象に残った。ピアノが入る前の序奏部では、第1主題が、へ短調の属音上に終結すると、突然、半音高い変二音に入る。ここで、第1主題の柔和な気分に、ふと疑問が過るように響きが陰る。主題ともいえないような断片の推移なのが、余計に気分的に聴こえる。この箇所の音楽の翳りは、はっきりとそう聴こえてくることはあまりない。優しく、子供を撫でるように愛情を注ぎこむさなかの翳りで印象深かった。

札幌交響楽団提供

 それにしても、広上という指揮者は、本当に弦の扱いに卓越している。弦5部を、自分でピアノを弾くように、丁寧に、意のままに操る。いまどの声部をどのように鳴らし、他のこの声部は伴奏で、というのが目に見えるように明確で、指揮者の役割の大きさを実感させる。札響との相性もよい。広上が振るとキタラもよく鳴る。さて、今回は短めに、これくらいで。正直、シューベルトの第5番でも、ハーモニーにもっと管楽器を生かしてほしいと思う箇所は多かった。だがあの第2楽章を聴いて細部をつつくのは無粋な気もする。

(多田圭介)

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