札響 第632回定期演奏会レビュー(執筆:平岡 拓也)
2020年11月20日(金)、21日(土)札幌文化芸術劇場hitaru
未だ収束の気配が見えないコロナ禍の中、東京から札幌に飛んでマーラーを聴いた。ちょうどこの演奏会の数日前に札幌市内の警戒度が引き上げられ、すすきの観光客の姿もまばらで寂しい限りだったのだが─札響は奇跡的に、予定された内容そのままに定期演奏会を開催した。
マーラーの交響曲を聴くのはいつ以来だっただろうか。大編成が「密」とされて日本のみならず全世界で避けられる中、マーラーやブルックナーの作品はなかなか掛からなくなってしまった。ではこの機会に小編成の近現代アンサンブル作品を、というわけでもなく、日本のオーケストラのプログラムに並んだものの多くは2管編成の古典派~ロマン派だった(このあたりは以前本紙エッセイで触れたとおりだ。夏に比べると、現況でかなり演目の幅は拡がっているのは幸いである)。そのような状況で、札幌でマーラーが響くとあれば、俄然興味が湧くというもの。譜面台が2人1組でなく1人ずつの使用であったり管楽器の間隔が広めだったりはしたが、14型にコントラバス1台を加えたフル編成の分厚さは紛れもないマーラー音楽のそれだ。改修中のKitaraの代替会場として暫くの間定期演奏会の会場となるhitaruの広い舞台も好作用したであろう。
前半はメゾの藤村実穂子を迎えてのマーラー『少年の不思議な角笛』抜粋。藤村はワーグナー歌手として主要なメゾの役の多くをバイロイトで歌っているが、その中でも特に強烈な印象を残すのが『ワルキューレ』でのフリッカであった。第2幕で主神ヴォータンを猛烈に詰り、間接的に英雄ジークムントを死に追いやりさえするこの恐るべき結婚の女神は、藤村に演じられると一層その強面な性格を強めるのである。それはひとえに彼女の鉄仮面のようなドイツ語の切れ味と発声の強靭さに拠るが─そんな彼女が『角笛』を手掛けると、なかなか興味深い化学反応が起きた。素朴な民謡としての側面は影を潜め、代わりに躍り出るのは自嘲と諦念であり、生と死・聖と俗といった対立概念は容赦なく並列される。冒頭「ラインの小伝説 Rheinlegendchen」はまだ平穏な方だ。レントラーのリズムの中で淀みなく歌われる。物語の幕開けを告げるホルンがまた長閑だ。しかし「夏の交代 Ablösung im Sommer」では早くも死の香りが濃い。第1連第1行„Kuckuck hat sich zu Tode gefallen“のTodeにつんのめるような強拍が置かれ、元来容赦ない死が訪れる「この世の生活 Das irdische Leben」では凄惨さが濃縮される。醒めた語り口がよけいに怖い。„Gib mir Brot, sonst sterbe ich.“はちょっと貫禄がありすぎる子供ではあったが。「原初の光 Urlicht」の深い歌い口は、これまで彼女の『復活』を聴いた聴衆に認知されているから言及は不要だろう。謹厳な表情を少し崩して歌われたのは、最後の「高い知性への賞賛 Lob des hohen Verstandes」だ。民謡の内容自体は他愛もないものだが、藤村は第2連冒頭„Der Kukuk sprach: »So dir’s gefällt,…“で地の文とカッコウの台詞の間に僅かな時間を挟むなど、音楽の流れを多少犠牲にしてでも詩の形式感の保持に拘っていた。最後のロバの„I-ja!“は皮相に締め括る。
アルニムとブレンターノが蒐集した『角笛』の民謡はどれも平易な素材であるが、マーラーはあえてそうした詩に付曲(実際はかなり改編しているが)することで非現実的世界─既にマーラーの頃、『角笛』の世界はいささか牧歌的すぎただろう─を創出し、同時に写実的な描写─木管を筆頭に高い表現力が求められる─を頻用することで、現実と非現実の境界を不明瞭にもしている。この奇妙な浮遊感こそがマーラー音楽の大きな魅力の一つなのだが、藤村の歌唱はまさにこの魅力をよく伝えてくれた。詩世界に醒めすぎず共感しすぎない絶妙なラインをうまく渡り歩いていたからである。オーケストラも素朴な歌を終始紡ぎ、歌に寄り添って呼吸していたが、特に後半ではより風刺的なニュアンスがあっても良かった。
後半の『交響曲第5番』は所謂「角笛交響曲」ではないが、第5楽章冒頭に前半最後の「高い知性への賞賛」冒頭クラリネットの旋律を含んでいる。歌曲集抜粋の最後にこの曲をおいたのは、明らかに下野のプログラム意図であろう。
『角笛』で些か抑制気味だったオーケストラはこのためにエネルギーを温存していたのか、と思いたくなるほどに強烈なエネルギーの放射が全編続いた。札幌交響楽団に筆者の抱く勝手なイメージは「透徹した美しさ、パワーは控え目で細身だが精緻」というものだったのだが、この2夜のパフォーマンスを聴いてそのイメージが吹き飛び一新された。これほどパーカッシヴで轟々たる力に充ちたマーラー演奏は、国内外問わず稀有なものだろう。特に金管の量感と鳴りの良さには思わずアメリカの強豪楽団を想起したほどだ。コロナ禍においてもそろそろこの作曲家が聴きたい、というのが今回来札した率直な理由な一つだが、その欲求の充足どころではない見事なマーラーを聴くことができたのは大収穫である。冒頭トランペットを吹いたのは老練・福田善亮。彼は90年代の都響マーラー演奏を支えた日本を代表する名手であるが、分厚い管弦楽を超えてホールを揺さぶるその強靭な音色は今なお健在である。マーラーに欠かせない繊細な歌心や3連符の鋭さも兼ね備えており、理想的にオーケストラを牽引した。他の金管の分厚さや打楽器の鋭い打ち込みも記憶に鮮烈に残る。2日目、第1楽章でスネアドラムの響き線がテューバのソロ(258小節)で共鳴していたのはご愛嬌だが─。また木管も特有のクレッツマー調を自らのものとして表現していた。オーボエの素朴さは前半に引き続き作品に最適であったし、後半で特に感銘を受けたのがコントラファゴットの地鳴りだ。第5楽章の538小節あたりからファゴットと共に疾走に加わり、597小節や673小節付近ではファゴットを圧する勢いで演奏を牽引し始める。これだけ聴こえるのも珍しいな、と思ったのだが─楽譜を見れば合点がいく。フォルティッシモかつ部分的にはスフォルツァンドすら指定されているのだ。これくらい聴こえても何ら問題はないし、「楽譜通り」だろう。
なお、今回はコントラバスが舞台後方に一列で並び、残る弦楽器は対向という独特の配置だったが、これによりマーラーの対位法的な書法の面白さが手にとるように伝わった。2日間燃焼尽くしたオーケストラを見るに、皆このスケール大きな響きに飢えていたのだろうか、と現状を勘ぐってしまった。
下野竜也は所謂「マーラー振り」としての印象が正直あまりないのだが、これまで読響などで聴いた限りではやはりマッシヴな音響構築を行っていた記憶がある。今回の札響でもリハーサルで同様のアプローチをとり、オーケストラから強靭な響きを引き出したのであろうか。もちろん彼が大音響の乱立に終始したというのでは全くなく、寧ろ逆だ。楽譜に散りばめられたスフォルツァンドやアクセントを丹念に拾い、かつ流れに収斂させることで雄弁に音楽を語らせた。アダージェットの音量変化もあくまでスコアに忠実だ。この楽章やスケルツォでのピッツィカートによる対話などではもう少し濃さが欲しくなりもしたが、このバランス感覚も下野の美質なのかもしれない。第1楽章のセクション単位で意図的にずらされる入りなど、マーラー特有の難所における丁寧な前振りも頼もしく見える。明瞭に対旋律が聴こえたのは当然指揮の見事さに拠るだろう。
唯一、指揮者のはっきりとした解釈が聴こえてきたのは第5楽章の終結部の直前である。下野は731小節でコラールがD-durに達する直前のドミナントのA(譜例参照)をぐいと伸ばしてタメを作り、解放したのちゆっくりと歌い上げた。
この瞬間の音響の見事さは、繰り返しで恐縮だが海外団体でもなかなか聴けない程のものであった。あとは748小節以降、オーケストラ共々突き進むのみだ。
清楚な札響のイメージを刷新する、豪快にして精緻なマーラーを聴いた2日間となった。久々の大編成ということは勿論のこと、COVID-19の感染拡大によりまたいつ演奏会が停止されるか、という予断を許さない状況も完全燃焼の理由の一つにあったのだろうか。本格的な寒さに包まれる直前の札幌で、hitaruの会場内は沸き立つような熱狂に包まれていた。早く何も気にせずブラヴォーが叫べる世の中に戻って欲しいものだ。
(平岡 拓也)
<著者紹介>
平岡 拓也(Takuya Hiraoka)
1996 年生まれ。幼少よりクラシック音楽に親しみ、全寮制中高一貫校を経て慶應義塾大学文学部卒業。在学中はドイツ語圏の文学や音楽について学ぶ。大学在学中にはフェスタサマーミューザKAWASAKIの関連企画「ほぼ日刊サマーミューザ」(2015 年)、「サマーミューザ・ナビ」(2016 年)でコーナーを担当。現在までにオペラ・エクスプレス、Mercure des Arts、さっぽろ劇場ジャーナルといったウェブメディア、在京楽団のプログラム等にコンサート評やコラムを寄稿している。
平岡さんの過去記事はこちら
- 【STJ道外編】新鋭から重鎮まで ─三者三様の新日本フィル10月公演レポート(執筆:平岡 拓也)
- 【リレーエッセイ<STJ接触篇>①】コロナ禍が可視化したもの―クラシック音楽の生存とは(執筆:平岡 拓也)
- 【STJ第5号掲載】札幌交響楽団 東京公演2020(執筆:平岡 拓也)
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