札幌劇場ジャーナル

辻井伸行 日本ツアー2021≪ロマン派≫レビュー(3月2日 @札幌文化芸術劇場hitaru)執筆:多田 圭介

2021年3月2日(火)札幌文化芸術劇場hitaru

辻井伸行の日本ツアー2021≪ロマン派≫の札幌公演を聴いた。131日に所沢からスタートした同ツアーは、319日に金沢公演で全日程を終えたばかりである。シューマンとリストという文字通り19世紀≪ロマン派≫の作品を通して辻井を聴くと、改めて辻井という音楽家の特殊性が際立つように感じられた。

辻井は筆者にとって不思議なピアニストである。ときに祖雑に聴こえるほど無造作に音を紡いだかと思えば、次の瞬間に別人のように深淵を垣間見せる。聴くたびに、現代の私たちが聴き慣れている音楽と趣を異にするように聴こえるのだ。ここでいう「現代的」とは、まず外面を整えるような美意識と言えばよいだろうか。まず形をつくる、というような。辻井の意識は、最初からここに向かっていないように思える。ありあまるテクニックを持ちながら、外面を取り繕うことに関心がないのだ。それが、現代人の感覚にとっては、ときに無造作というように映るのではないか。だが、聴き進めるうちに、その無造作さは気にならなくなり、音が無媒介に身体に入り込み、結局は心を揺り動かされる。いつもそうなのだ。

(C)Yuji Hori

筆者はかつて辻井を「身体を生きる音楽家」と評したことがある。今回もその思いを強めた。少々敷衍しよう。今回のプログラムに乗せられた19世紀ロマン派の時代は、人間が極めて個人的な存在として社会化された時代である。個人の自主自立の代償として私たちは身体を疎外した。ロマン派の芸術とは、その疎外された身体的な自己から発せられる不安、絶望の叫びであった。また、そのさなかで探求される自己の追求である。現代の私たちは、こうした自己否定の連鎖の末に成立するフィクションを生きている。誰もが、理性を持ち、公共心があり、一票の権利を持つ市民。こうしたフィクションが存在することにしよう、と。そうすれば社会がうまく回る、と。このフィクションが、生きられる身体を疎外したのが19世紀近代である。しかし、辻井の音楽は、意識によって世界が分断される手前で自然と一つだった身体を回復させる。そして、こうした19世紀ロマン派に焦点を当てたプログラムを、疎外以前の身体を生きる辻井が奏でるとどうなるのか。興味は尽きない。辻井という音楽家の特殊性が際立つプログラムと書いたのはこういうわけだ。

プログラム前半のシューマンからは、「蝶々」と「子供の情景」が選ばれた。このうち「子供の情景」を興味深く聴いた。「子供の情景」は、子供のために作曲された、いわゆるユーゲントアルバムとは一線を画す。幼い日への思いを大人の目線から綴った複雑な味わいを持つ。辻井で聴くと、まさに自然と一体となって遊ぶ身体の歓びのような音楽と、それが遠い記憶のなかに失われた哀しさを往き来するのだ。

子供の情景の第1曲「見知らぬ国と人々について」で、冒頭の主部を繰り返すときに、辻井は最弱音に転じさせ、遠い記憶の世界に入っていった。そこからは無垢な子供の世界。「鬼ごっこ」での親戚が集まってテンションが上がったような表情、そして、最後の和音の解決でフッと力を抜くと、それを見つめる大人の優しい視線も感じられる。「一大事」や「怖がらせ」も、あくまで幼少期のものであり微笑ましさを超えない。幼少期の、何も起きない繰り返しではあるが楽しい日々。それを全身で味わう。空気が一転したのは、終曲の「詩人は語る」。それまでの楽しい日々に、自分は今もういないというように、空虚な空気に襲われる。辻井の音楽が諦めたかのように歩みを緩める。シューマンが指示したテンポは♩=112であるが、辻井は♩=70くらいだったのではあるまいか。もう、絶対に戻らない、手が届かないという諦めが響いてくる。しかし、そのなかに純粋な憧れも響いている。まるで、ただ友達と公園で遊ぶ日々のような何も起きない毎日というものが、実際には、ファンタジーのなかでしか成立しないものであって、実はそれ自体が、一番意味のあるものというか、一番目的とすべき美しく豊かなものなんだ、とでもいうような。そんな憧れの気持ちが響いてくる。ピアニストのアファナシエフは、この終曲について「ここまでの美しいすべてのものは空っぽだった」と語っている。だが、辻井からは、「空っぽ」の諦めの中から、静かに憧れの心も聴こえてきた。

後半はリスト。リゴレット・パラフレーズ、愛の夢、メフィスト・ワルツ第1番の3曲。後半のリストは、作品自体が外面的な効果を重視している分、辻井の本質が生きてこないようなもどかしさはあったのは事実だ。だが、リゴレット・パラフレーズには聴き入った。マントヴァ侯爵に対するマグダッレーナのあしらうような表情などにはまったく拘泥せず、あくまでも四声の音のアラベスクとして堪能させるのだ。子供の情景で成熟した人間の視線を実感させた辻井が、また無垢な辻井に戻っている。本当に興味が尽きない。

(C)Yuji Hori

辻井の音楽を聴きながらある武術家のこんな言葉を思い出した。「ケガしたら稽古ができなくなるから試合なんてしない」。この言葉には、近代的な身体疎外についての本質が潜んでいる。近代的な競技スポーツとライフスタイルスポーツの差である。近代以降、スポーツの中心が競技スポーツに変わっていったが、ケガしたら稽古ができないから試合なんてしないという言葉には、その競技スポーツが持つ身体疎外への嫌悪がある。その武術家は、競技スポーツに身を置く選手の多くが、自我の臭いがキツすぎて見ていられないとも述べている。競技を通して自己を表現し、自己を主張している時点でその人は不自由に見えるのだろう。もちろんその中にも例外的な選手はいるであろうが。これは舞台芸術でも同じである。自己確認のために歌い、踊ることを必要としている時点で、その人はどれほど高度な技巧を披露しようとも、本質的に不自由である。本来繋がっている身体レベルの世界を無理やり切っているからだ。筆者も自我の臭いしかしない舞台に接すると、どれほど技巧が優れていても、嫌になることがあるのでよく分かる。辻井伸行、日本ツアー2021のプログラムは、このような身体の切断から生まれたロマン派の作品に焦点を当てた。そのことが、辻井という音楽家の本質を幾重にも顕在化させたように思われる。それによって、美とは何であるのか、感動とはどのような現象であるのか、考えさせられた。そのような稀有な空間を体験したのは確かだった。

(多田 圭介)

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