札幌劇場ジャーナル

ラファウ・ブレハッチ ピアノ・リサイタルレビュー(10月31日 @札幌コンサートホールKitara)執筆:多田 圭介

2021年10月31日(日) 札幌コンサートホールKitara

ラファウ・ブレハッチのリサイタルを聴いた。ブレハッチというピアニストが、長足の進歩を遂げ、ついに芸術の深淵に踏み込みつつあるのをはっきりと感じた舞台であった。

筆者は、ブレハッチが2005年にショパンコンクールで優勝する前、2003年に浜松で入賞した頃から彼に関心を寄せ続けている。その結晶化した響きと純粋無垢で清廉潔白な音楽に惹きつけられるものを感じていた。彼は来日するとやたらとショパンを弾かせられているが、そのショパンは新鮮味を欠き、ベートーヴェンの初期作品などを弾くと水を得た魚のように生き生きとする。これはデビュー当初からの彼の特徴だった。ただ、あまりに完全にピアノをコントロールできるためか、その純粋無垢な音楽はときに、精神の「きしみ」や葛藤、そして歓びも置き去りにしているように感じられることもあった。楽器を征服し尽して、言い換えれば、身体を精神化し尽して、かえって哀しみも喜びもなくなっているように聴こえることもあった。これはあくまでも以前の彼の特徴である。もう少し敷衍しよう。

自分の身体をうまく動かせないという感覚を持つのは動物のなかで人間だけである。ゴルフはクラブによって小さな球を遠くまでまっすぐに正確に飛ばすことを競う競技である。身体に不自然な運動を強制するものなのに、みな夢中になる。どれだけ練習しても完全に自在にはならない。だが、だからこそ探究に追い立てられるのだろう。身体と精神(心)の乖離が起きている人間だからこそ、自分の身体をいかにコントロールするかということがテーマになりうる。当然、この身体と精神の乖離が克服し尽されると、葛藤も喜びもなくなる。スポーツと芸術の本質的な違いはあるが、楽器の演奏にも同じ面がある。上で、かつてのブレハッチがときに身体を精神化し尽して、かえって哀しみも喜びも感じられなくなることがあると述べたのはその意味である。文明というものは、自分の身体に対する違和感によって形成されてきた面があるからだ。もちろん、ブレハッチがあまりに上手すぎたためであり、極めてハイレベルな次元での議論であることは言うまでもない。

彼の音楽は、どこかで芸術家としてのアイデンティティーに違和感を抱えるようになっていたのではあるまいか。ここ数年の彼の演奏からはそんな違和感の表れを聴くことが増えてきた。それを最初に感じたのは2017年に発売されたバッハのアルバムを聴いたときだった(録音は2012-2015)。バッハのパルティータの第1番では、フレーズ単位で鳴るか鳴らないかぎりぎりのところへ沈みこんだり(バッハ演奏としては禁忌とも言える)、なにか変りつつあるのを感じさせた。かつての清廉潔白な音楽とは明らかに違う面を見せていた。筆者にはそれはブレハッチの自己変容の欲求のように感じられた。

(c)Marco Borggreve

そして迎えた2021年の来日公演。ブレハッチはさらに歩みを進めた。悲しみの根元には身体の「きしみ」や痛みがある。それに静かに耳を傾け、完全性と引き換えに失われつつあった身体感覚の精妙さを取り戻そうとしているように聴こえる。そしてそれが妙に艶めかしい、なにかエロティシズムを感じさせるようになっていた。それがかえって単なる身体のコントロールを超えた、完結しない精神の深淵へと彼を踏みこませたように感じられたのだ。かつてのお行儀のよいブレハッチはもう舞台にいなかった。ときにわがままに、ときに最上の洗練で。才能を持つ人はその才の投下先を見つけるとすごくクリエイティブになるが、一歩間違えたら自己破壊か、他の何かを破壊する。その才能の烈しさ、危うさが出てきているのだ。

1曲目はバッハのパルティータ第2番。まず冒頭のシンフォニアはいわゆる「フランス風序曲」風に書かれており、よってオーケストラのTuttiやソロを念頭に構想されている。よってこの序奏部の付点音符は、オーケストラのフランス風序曲の燦然とした響きがイメージされているために、厳粛で緊迫したリズム感が求められる。そのため、この付点はより鋭利に、多くのピアニストは複付点に近い音価で奏する。これはバッハ演奏の現代の常識である。だが、ブレハッチは自分が感じるままに、カッチリと付点で弾いてこの曲を始めた。そして上声部が重音ではなく他声部と対話風になる4小節に入るとき、ブレハッチは急に柔和な響きに変える。5小節で再び上声部が重音になると、オルゲンプンクト上に展開される半終止に向かって再び盛り返す。衒学的にならずに、現代のピアノという楽器から発せられる音楽に身を寄せ耳を傾けているのがよく伝わってくる開始だった。

(c)Marco Borggreve

続くAndanteでは、21小節の1拍目は変ロ音のことも多いがブレハッチは新全集に従いハ音。響きが減七になる。新全集ではこの小節には珍しく4つの32分音符にスラーが付けられているが、ブレハッチは、Andante全体の32分音符をすべてスラーで弾いたことにも注目したい。パルティータで最も惹かれたのはクーラント。7小節目の頭のアルペジオは、(例えばR.グードなどは)優しく撫でるように弱音で弾いている。どう弾くかと期待したがブレハッチは無造作に走り抜けた。少々拍子抜けしたが繰り返しの2回目、ここで突然最弱音に沈みこんだ。また、2小節3拍目Asはモルデントなのに、8小節3拍目Esのモルデントはカット。これは理論的には本当はいただけないのだが、目くじらを立てる気にまったくならない。ブレハッチが正直に自己を曝け出しているのでもう次の瞬間に何が起こるか分からないのだ。ごく細かい部分の指摘になったが、こうした細部の瞬間にこそ彼の今の本質が現われている。

ベートーヴェンのソナタ第5op.10-1も素晴らしかった。アクセントの無限のニュアンスが次々と耳に飛び込んでくる。第1楽章の再現部191小節から繰り返されるfp(フォルテピアノ)は単音の191小節は峻厳に、長2度で音がぶつかる196200小節のfpはスッと弱める。2度でぶつかるのが嫌なのかと思ったが、そうとも言えない。終楽章の再現部8082小節に出てくるfp2回とも同じ音程であるが、ここは1回目をフォルで2回目は弱音だった。演奏家がその場でダイナミクスやフレーズを作っているということは考えにくいのだが、こうしたところを聴いていると瞬間的に変えているようにも聴こえる。本人に訊かないと分からないがそのくらい即興的に聴こえたということだ。

休憩の後のフランクの前奏曲・フーガと変奏曲op.18もよかった。フーガの9小節の序奏。主題を暗示する重要な箇所である。ブレハッチは音栓を全開にしたパイプオルガンのような響きでこの主題を弾いた。この9小節間、ピアノという楽器を忘れさせられた。続くフーガは、何かバッハより以前のフレスコバルディなどのフーガを聴いているように感じた。変奏曲もプリミティブ。単純な美しさは無比なものであった。

(c)Marco Borggreve

最後のショパンのソナタ第3番は問題あり。以前からブレハッチはショパンを弾くと新鮮味を失うところがあったが、今回はそれが以前より顕著だった。この作品の終楽章はAB2つの主題が交互に現れるいわゆるロンド形式で書かれている。同一の主題は同じテンポが原則。だがブレハッチは2回目にB主題が登場するとやや乱暴なほど加速した。254小節からのコーダは、おそらく会場にいたすべてのお客さんがはっきりと「雑」と感じたのではないだろうか。少々考えられないほど加速して、音も濁っていた。 

ただ、演奏としては少々いただけなかったものの、これはやはりブレハッチが正直になってきたことの表れとしてポジティブに評価したい。何より筆者はこのやや雑然としたショパンに惹きつけられたのだ。冒頭で書いたがブレハッチはデビュー当初からそもそもショパンを弾くと新鮮味を無くす傾向が強かった。その上、来日するたびにショパン・ショパン・ショパンである。嫌々外形だけ取り繕ってきれいに弾くのももう飽きているのではないだろうか。芸術家というものは、自身の内部で何かが変容しつつあるもの、崩壊しつつあるものをそのまま曝け出すときに強い魅力を発するところがある。ブレハッチは、今まさにそのさ中にいるように感じられる。このショパンも不思議と筆者を魅了したのは、恐らくは彼が自分を曝け出した結果だったのではないか。いずれにしてもかつての純真なブレハッチはもういなかった。音色もメロウ。かつてのキラッキラの音彩ではない。これからブレハッチがどう変わってゆくか、目が離せないと感じた2021年の来日公演だった。

(多田圭介)

 

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