札幌劇場ジャーナル

安永 徹&市野 あゆみ ブラームス ヴァイオリンソナタ全曲演奏会

コンサートレビュー

2018年11月17日(土) 札幌コンサートホールKitara(小ホール)

安永徹&市野あゆみ、ブラームス、ピアノとヴァイオリンのためのソナタ、全曲演奏会を聴いた。会場はキタラ小ホール。安永は2009年に退団するまでベルリンフィルのコンサートマスターを26年に渡って務めた。退団当時、安永はまだ50代だった。当時、退団の理由を、忙しいコンサートマスターの仕事に一区切りつけてまだエネルギーのある今のうちに室内楽に集中したい、と語っていた。しかし、その後、体調不良でキャンセルが続いたようだがこの頃活動を再開させた。ベルリンフィル退団の本当の理由は本人にしか分からない。しかし、今日コンサートを聴いて、もしかすると安永はバーンアウトしてしまったのではなかったかと想像させられた。今日聴いた限りでは、安永の音楽はもう枯渇している。どこかへ向かうエネルギーも、何かを成し遂げようとするモチベーションも完全に失っている。

 

老境に差し掛かっているとはいえ、一般的に老大家の音楽には、いかに技巧が衰えていようとも、それでも大家でしか見ることのできない「輝き」というのはある。例えば、ヴァイオリニストで言えばヨーゼフ・シゲティなどがそうだ。晩年のシゲティは常に音が揺れ細かい音符もフラフラだったが、それでも、老大家にしかなしえない澄み切った境地、深い瞑想、そして何より、美への熾烈な憧れがあった。しかし、安永の音楽は、「今ここ」の自分に満足してしまい、もう何かを乗り越えなくてはならないという気概が消え去っているという様子なのだ。西洋の音楽は、一般的に言って、生成消滅するこの世界を抜け出し天上の世界、真実の世界へと向かおうとする。あるいはその不可能性に直面しての無力感を歌う。あるいは、その無力感から個の小ささを自覚し自然へと帰依する。いずれにしても、「今ここ」のこの世界を超え出ようとする根源的な衝動を持つ。安永にはこれが決定的にないのだ。安永はこの衝動をどこで失ったのか。まだ60代で老大家というほどの年齢でもない。ベルリンフィル退団の理由、その後の彼の人生の歩み、そうした音楽外の要素に決定的な何かがあったのではないだろうか。

 

この日聴いた演奏は、一言でいうと、リズムが死んでおり、その結果、句読点のくぎりのない棒読みになっているのだ。かつ、目一杯遅いテンポで、生気のない地を這うような音楽が続いた。構造への意志の減退、音と音との関連性の希薄さ。ブラームスが書いた素朴で実直な旋律は、一見、素朴に見えても一筋縄ではいかない仕掛けに満ちている。しかしその仕掛けにまるで気づいていないかのようなのだ。全曲を通して、そのまま「素朴に」聴こえてしまった。

 

ソナタ第一番は、ト長調。冒頭のピアノ伴奏のトップノートはソシレの「シ」。和音の第3音。決然とした主音や属音を避けた穏やかで控え目な開始だ。これに乗って5拍目からヴァイオリンは「レ」を繰り返す。ブラームスは、このなんの変哲もない開始の「レ」に、しかし、小刻みな休符を書いている。穏やかななかにかすかに走る「緊張」を表現しているのだ。「レ」はその緊張に堪えかねるように主和音を落下する。しかし、開始のたった2小節にこめられたこの綿密で周到な書法の意味が完全に抜け落ちていた。演奏が始まってすぐ、ここがただただ散漫に弾かれたのを聴いて、この先どうなってしまうのかと感じた。ニ長調に落ち着くと音楽は魂の歌のような第二主題に入る。ここでも歌が湧きあがってこない。音色の変化も気分の変化も聴き取ることができなかった。ブラームスはここに”con anima魂を込めてと記しているのに。第二楽章の重音で奏される懐かしい主題は、何か身体の重たい生物が這いつくばってのそのそと歩いているような鈍さだ。中間部ではふと陰鬱なロ短調に迷い込む。この作品で唯一死の影がよぎるこの箇所は、一度聴いたら耳を離れないほど深い慟哭を湛えているが、まったくもって楽天的に弾かれた。まるで、色々あったけど、自分は今は満足しています、とでもいう風に。終楽章、そして、次の第二番も同様の演奏が続いた。

 

休憩を挟んで3曲のソナタのうち最も完成度が高い第3番。作品がもつ緊迫感が何かを変えてくれるかと期待したが何も変わらなかった。冒頭、ヴァイオリンの旋律はAからD4度上がって4度下がる。たったこれだけなのだが、ピアノ伴奏はドミナントでかつ半拍ずれて動くカノンを弾いている。伴奏はありきたりのd-mollのトニックではない。しかもカノンとヴァイオリンが共働しているのだ。この綿密さによって何かに睨まれているような緊張が生まれる。しかし、この日の演奏では、この半拍の「ずれ」が聴き取れないしヴァイオリンと組み合っていない。そして、ブラームスはこの主題の3小節目と4小節目の4拍目で、そのカノンの規則通りの進行を壊すDesCisを書いている。それに触発されるようにヴァイオリンはほんの一音だけラからソへ揺れるのだ。この卓越した書法に安永と市野は配慮していただろうか。そうは聴こえなかった。技術の問題だけではなくアナリーゼの「軽さ」、これが際立っていた。

 

第二主題はへ長調でピアノに出てくる。ここは市野がシューマンのような夢想的な表情をためらいがちに、しかし辺りを払うように堂々と弾いた。ここは惹きつけられた。この日唯一の聴きどころだったかもしれない。第二楽章はニ長調の旋律の優美さが聴こえてこない。第3楽章は、いかにもブラームスらしい、無理に苦痛を隠しユーモアを振りまくような悩ましげな音楽が表出されない。展開部風の中間部を経て第3部では3度と6度の重音と、大きくため息をつくような旋律が印象深い箇所だが、何をしたいのか分からなかった。メランコリーを払いのけるように情熱が爆発する終楽章も緊張を欠いた。

 

かつて、ベルリンフィルのコンマス時代に何度も聴いた安永と同じ人間とはとても思えなかった。もちろん、人間だから人生においてモチベーションを失うこともあれば精神の危機に陥ることもある。だが、類まれな才能に恵まれた名演奏家がこのままキャリアを終えてしまうのであれば、それはあまりにも寂しい。安永がもう一度奮起することはあるのだろうか。

 

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