藤田真央 ピアノ・リサイタルレビュー 11/7@Kitara大(執筆:多田圭介)
藤田真央ピアノ・リサイタル 主催:オフィス・ワン |
ピアニストについて語るとき「彼/彼女は誰それ系だよね」などとよく言うものだ。悠然とした風格がある演奏だと「アラウっぽいね」とか、楽譜を定量化された記号として読解しそれを正確に音にするタイプだと「ポリーニっぽいね」のように。つい最近聴いたガジェヴは弱音を重視した内省的なスタイルに変貌しつつあり、会場で顔を合わせたピアニストの友人と「プレトニョフっぽくなってきたね」などと話したところだ。
だが、藤田真央は誰にも似てない。ほとんど唯一無二と言っていい。そもそもなのだが、彼の音楽は、演奏者が自分の内面にあるものを聴き手に伝えるという音楽には聴こえない。もっと言えば、「発信する側(作曲家、演奏者)」が「受け取り手(聴衆)」に物語を伝え、それによって後者の内面に変容が起きるという近代的な文化のルールとは何か異なるものを感じさせるのだ。彼の音楽は聴き手の内面に決してズケズケと入ってこない。無粋に土足で踏み込むことをしない。もはや自分が主役だとも思っていないのではないか。
むしろ、会場に来た聴き手の1人1人が主役であって、藤田はその心の周辺にそっと寄り添う。それ以上のことは彼の美学にはないように感じられる。だからといってその音楽が無内容なのかといえば、そんなことはまったくない。ただ、藤田の音楽を言葉で表現しようとするとそれを裏切るところがある。なぜなら、言葉も「著者」→「読者」のように物語を伝達するものだからだ。本当に不思議な音楽家だが、筆者にはどこか21世紀の音楽家のあるべき一つの姿を先取りしているように思えてならない。
当日の演奏内容に入る前にもう少しこの「そっと寄り添う」ということについて。一般的に行って、人は心に痛みを抱えているとき、それを分かってもらいたいという気持ちが出てくるものだ。だが、それと同時にあまり簡単に分かられるとむしろ虚しいものを感じる。例えば、友人に悩みを打ち明けたとき、即座に「ああ、分かるよ」という反応がくると、多少なりともがっかりするはずだ。言い換えると、あまりに簡単に「共感」されると、私たちは逆に「お前に分かってたまるか」という気がする。なぜだろうか。それは、私たちは、真の共感とは「それは私には分からない、私はそこにどうしても到達できない」ということを痛切に実感することのほうにあると、どこかで知っているからなのではないか。正確に言いなおせば、「共感の不可能性」の自覚こそが「真の共感」だということを、である。逆に、痛みや悩みに対して、分かったふうの中途半端な共感によってずけずけと介入してサポートするやり方は、他者の心への無理解を示しているということもできる。
藤田の音楽は聴衆の心にそっと寄り添う。その意味での、たしかな他者の心への共感がある。だが、それは、聴き手の心にずけずけと入り込んでくるのではなく、物語を伝えるものでもなく、逆に「分かったよ」という反応を示すのでさえない。「分かった」という反応を示さない他者がただそこにいるという、個人を他者から分かつベクトルによって、心の痛みや悩みが真に共感されるというそんな音楽に感じられてならないのだ。
となると当然のことだが、藤田の音楽は聴き手が抱く「この曲のここはこう弾くものだよね」という予想や先入観をことごとく外しにかかってくる。もちろん藤田本人にそんな意図はないはずだが。プログラム前半のショパンのポロネーズ第1~7番は徹底的にそうだった。まず、いかにもというポロネーズのリズムがそれらしくは聴こえてこない。第1番では、冒頭のあの、力強い4小節の序奏が、これほど無造作に、まるで指慣らしのように弾かれたのを初めて聴いた。いつ弾き始めたのかさえ分からないうちに、もう弾いていた。中間部のトリオでも空気は変わらない。いや、変えない。第2番も主題へ入る前に和音を爆発させない。やはり知らないうちに先へ進んでいる。一番驚いたのは第5番。轟くような低音のなかから辺りを払うような主題が出てくる曲(だと思われている)だが、藤田はここでさえ、柔らかい音色でスッと弾くのだ。第6番の音階を駆け上がった頂点の解けるような優しさも際立っている。
ずっと無造作。飄々としている。だが雑なのとは違う。無内容ともまったく違う。例えば、第4番の2つ目の主題が繰り返されたとき、藤田は2拍目のスタッカートのついた和音をペダルを踏んで長く伸ばした(※譜例1)。先に進むのを躊躇うように、である。不安定な転調の多いこの曲をこのまま気持ちを入れて弾き進めると、どこかで聴き手の心を搔き乱してしまうと感じて指が止まったように聴こえた。おそらく、もう一度この曲を弾いても同じようにはならないだろう。本人に「ここをなぜそう弾いたのですか?」と訊いても「そのときそう感じたから」以上の回答はないだろう。ともかく、デリケートで純真な藤田の音楽が、ただ無造作に弾いているだけのものなのではなく、極めて感じやすいデリカシーによって成り立っていることを実感させるに十分だった。
前半最後のポロネーズ第7番についてF.リストは「傷つけられた憂愁、かき乱された平安」に彩られていると述べているが、藤田が弾く同曲からその気配は払拭されていた。あくまでも優しく瑞々しい。後半の曲目はそのリストのソナタ。この複雑で深淵で偉大な音楽が、あっけにとられるほど穏やかで幸せそうな表情を見せた。威圧感なんてどこを探しても見当たらない。だがアナリーゼには念が入っている。それがもっとも際立っていたのは華麗なエンディングになだれ込む直前の642小節~。この曲は譜例2のように最初の主題とそれに対比されるモチーフの2つ、M1とM2が基礎になっている。
この642~は、一見すると何の変哲もないように(そう弾かれがち)見えるが、ここは、音高の秩序はM1のもので、音価の秩序は対比モチーフであるM2に基づいてる。曲を統一する要素がここで巧みに統合される。かつ右手のほうは分散和音を極度に圧縮した形をとっており、これは実質的に音列技法の先取りと判断できる。リストは凄まじく時代を先取りした作曲家なのだが、藤田ほど、ここを嬉々として弾いたピアニストを筆者は知らない。まるで春になって新しい生命が一斉に動き出すようなのだ。ピチピチと飛び跳ねるような左手、それに水しぶきをあげるような右手が重なる様はいま思い出しても鳥肌がたつ。
他方で、私たちがこの曲に期待するであろう、Grandiosoの威風や連打される和音の威圧感はやはり拭い去られている。逆に、走り抜ける走句のまばゆいばかりの透明感がそっと彩りを添えるのだ。
やはり藤田は21世紀の音楽家であるように思えてならない。彼の音楽は新しいのだ。「新しい」と言えば、ちょっと思いだしたことがある。「新しい傷を負った人」という本を知っているだろうか。著者はフランスの作家のカトリーヌ・マラブー。「新しい傷」とは、21世紀に入って以前であれば出会わなかった他者との衝突が頻発するようになって生まれた傷だとマラブーは考えている。もう少し広く、大戦や大震災で負った心の傷と解してもいいだろう。以前であれば、心の傷というものは、傷を負った経緯を一つの物語として描けると、それによって癒され、そして痛みが解消するものと考えられていた。だが、今はこうした解釈によって、物語化によっては決して対抗できない傷が発生しているとマラブーはいう。意味づけることがむしろ冒涜であるような傷。それを「新しい傷」と呼んでいる。
「傷」について他者が簡単にそれ受け入れて、理解して、コミュニケーションが成り立ったかのように振る舞うということは、本当は物語化できないはずの傷を物語に還元してしまうということを意味する。だが容易には物語には回収できないはずの傷は、安直に「分かるよ」と共感を示すのではなく、「それは私には分かってあげられない」という共感の不可能性によってこそ癒される可能性に開かれる。マラブーはそう述べる。藤田の音楽もそういうものなのでないか。他者の心に入り込んでくるのではなく、そっと居合わせるだけ。だが放置とは違う。そんなデリカシーが彼の音楽の魅力なのではないか。
本当は彼の音楽には、物々しいコンサートホールも、正確に時間通りに進行するプログラムも不要であるようにさえ感じる。街に置いてあるアップライト、それも壊れて出ない音があるようなピアノを奏で、その横で子どもが踊っている。そんな音楽がしたいのではないだろうか。ずっとそんなことを考えさせられた。クラシック音楽の分野のピアニストというものは、暗く深刻で孤独じゃなければ大家と看做されづらいところがある。正直に言って筆者にもそれはある。だがそんな偏った世界観を歯牙にもかけない藤田の音楽には、似たピアニストを探すのが困難であるような新しさがある。間違いなく唯一無二の音楽だし、誰にも似てない。そんな藤田真央の音楽を、マラブーに従って「新しい傷を癒す音楽」と呼んでみたい気がしている。当日は3階席の一部の他はほぼ満席。会場の空気も胸が高鳴るような期待感に膨らんでいた。藤田がこれほどたくさんのファンから支持を集めているのも当然のことだし、いまこうしたピアニストが求められているのも納得できる。そんなリサイタルだった。もちろん、まだ色んな曲で聴かないと未知の要素が多いのも確かなのだが、気になって仕方がない。今すぐにまた聴きたい。今後も札幌にもぜひ来てほしい。
(多田圭介)