【道外編 第二弾】上岡敏之指揮 新日本フィルハーモニー #602 ジェイド<サントリーホール・シリーズ>(3月30日開催)
上岡敏之が新日本フィルとマーラーの交響曲第2番を演奏した。上岡と新日本フィルは、作品の価値について再考を迫るほどの新鮮な演奏を聴かせてくれた。演奏が始まると、最後まで、まるで初めて聴いた曲かのような感興のうちで音楽は過ぎていった。その音楽はピュアで清らか。まるで、シューベルトの「水車小屋」のような素朴な抒情性に満ちていた。マーラーの第2は、多くの研究者によって、型へのこだわりが強く、強引で構えた作品であり、第3以降に発揮される個性は影を潜めている、と評価されがちだ。だが、その評価は、爾来のまさしく「強引で構えた」ものものしい演奏が、マーラーの自然賛美風の音楽を覆い隠してしまった結果だったのではないか。そんな風に考えさせられた。上岡と新日本フィルが奏でたのは、第3・第4、そして「少年の魔法の角笛」に一貫する、素朴な抒情性、自然への憧れ、誰かがふと口ずさんだような民謡風の旋律、こうした要素に満ちていた。もちろん、そうした夢想的な甘美な世界が極まり、この世界を超越してゆこうとする力はあった。だが、それが力づくなのではなく、しなやかに、優しく迎え入れられるといった風情なのだ。
だが、その演奏には、細部まで微に入る彫琢が施されている。何もしていない箇所が一箇所もないほど手が入っているが、上岡はそれを意識させない。では、どう手を入れたのか。演奏を聴いて新鮮に感じた箇所のスコアを洗い直してみた。すると、興味深いことが見えてきた。この作品は1894年に完成しているが、第1楽章は1888年に完成していた交響詩「葬礼」を元にしている。「葬礼」は交響曲第1番で死んだ英雄への弔いの音楽だ。しかし、マーラーは、1894年にハンス・フォン・ビューローの葬儀に参列した際にクロプシュトックの賛歌を耳にし、この詩を改作し終楽章に使用し、交響詩「葬礼」を改定し第1楽章に組み入れることを決意した。こうして、英雄の「葬礼」だった音楽は、普遍的な「復活」の物語への前触れとして生まれ変わったのである。しかも、クロプシュトックの詩はそのまま採用されたのではなく、第3節以降はほぼマーラーの創作である。原詩が持つ消滅と諦めの世界から、復活とその希望の詩へと改変されているのだ。もともと葬礼として書かれた作品を復活の序章へと改変したのだから、細部には小さな変更が散りばめられている。今回、上岡の指揮に接して、「新鮮」と映った箇所の多くは、葬礼から復活へと改訂されるなかで書き加えられた指示に該当するのだ。先に第1楽章に絞り葬礼からの変更箇所に注目してみよう。
まず、冒頭の8度のユニゾンのGのトレモロ。上岡は打点を不明確にし、ゆっくりと両手を降ろした。VnとVa奏者がそれぞれの間合いで入り、ずれたアインザッツでうねるように始まった。もがき苦しむ人間の苦悩のようだ。ここを聴いただけで「今日は普通にはいかないぞ」と感じた。低弦のレチタティーヴォが終わる15小節の3拍目。いままで聴いたことのないようなグロテスクさでコントラ・ファゴットが呻りを上げた。明らかに低弦とのバランスを破るように鳴らしていた。この箇所をスコアで確認すると「葬礼」にはVcとCbしかない(※譜例1)。交響曲に改訂する際にFgとC.Fgが追加されているのだ(※譜例2)。明らかにこれを強調している。矛盾と闘う個人的な音楽と聴こえる。
次に、副次主題の提示。葬礼では旋律も低弦のリズムもppだが、交響曲では旋律がpppで低弦はpp。低弦は威圧的な第1主題を3連符に圧縮した音型を繰り返している。清らかな副次主題の提示にあって、潜在意識的に意のままにならない何かが蠢いている(※譜例3)。このバランスも緻密だった。練習番号7でこの副次主題がpppになりホ長調主題へ向けて変容される様はまるで湖面に融けてゆくようだった。小さく、新しい生命が動き出す初春の自然のようだ。
そして、聴衆全員が驚いたであろう、展開部直前の副次主題(練習番号8)。弦が聴こえるかどうかぎりぎりの最弱音。しかも、嬰ハ短調になる練習番号11まで延々とpppなのだ。ここにも、交響曲に改訂される際にマーラーは”sempre ppp(常にpppで)”と書き足している(※譜例4)。
どこまでが「常に」なのか楽譜上では判断できないのだが、上岡は嬰ハ短調に移るまですべてsempreと解釈したのだろう。あまりに連続する最弱音に、会場内で観客同士で顔を見合わせるような雰囲気になった。しかし、そのさなか順に登場する木管はしなやかで新鮮な歌心を聴かせる。さらに、驚いたのは、直後7小節目からホ長調の上昇音階を奏でるハープ。聴こえないほどのpppの和音の中からくっきりと、一段ずつゆっくりと階段を昇るように奏されたのだ。改訂された交響曲でマーラーは全体がpppのなかハープにはp一つを指定し、さらに”deutlich(はっきりと)”と指示している(※譜例5)。
第1楽章の展開部に入る前の段階で、マーラーは、この交響曲では、どれほど苦悩に満ちた人生でも、必ず救われる、救済の光は誰にも射し込むという意思表示をしたように感じられた。どこか楽観的な青春の詩のような印象が強いこの演奏はこうした些細な指示を見逃さずに積み重ねていった結果なのだろう。
ハープに関して言えば、展開部でフルートが麗しく走句を奏でる練習番号13も忘れられない。ここでもハープが主役になり天駆けるように前向きな音楽を彩る。マーラーはここにも改訂の際に、全体がpppのなかハープの1stにのみpを指定し(2ndはppp)”sehr deutlich(とてもはっきりと)”を書き加えているのだ(※譜例6)。爽やかな風が吹き抜けてゆくフルートとハープのための協奏曲のようだった。
再現部(23)の弦のポルタメントが重なり合う柔和な表情、EからEsを介して雲がかかるような心情の変化、ハ短調で重々しい足取りを聴かせる低弦とハープ(※譜例7)、再現部以降は、あまりにデリケートな表情の連続で席によっては聴こえなかったのではないかと思わされた。個人の内面の心の音楽だ。他人から見て分かる必要はないと言わんばかりに。
第2楽章も優しい。ここでもシューベルトの歌曲のようなレントラーが続く。特に一度遮られた行く手にもう一度挑んで乗り越えた安らぎの音楽(9~11)、その嬉々とした表情(11)は上岡ならではだ。第3楽章も緻密。35からは、1st2ndともに人員が半減されたVnのpppの静けさのなかでCl.の16分、Fg、Hrが明滅しつつ静寂へ吸い込まれてゆく。明るい自然のなかでピチピチと生き物が声を発すように自然への憧れが感じられる。バッハを思わせる中間部の対位法も極めて透明で至純。第4楽章「原光」では、アルトのゲーリングも素晴らしかったが、ここではイ長調の部分に注目した。Picc.が歌手に対し高音で対位旋律を奏するのだがその柔らかさ、さらに、2nd.Picc.が3度低く加わり、2本のVnがオクターブ下で加わり、2本のPicc.に重なる。そしてそこにハープのアルペジョが重なり合う。ここの冷たくフッと重力が無くなったような霊気のような音楽は、この日の演奏を象徴していたように感じられた。終楽章についても述べるべきことは多いが、何よりも強調すべきは終結に向かう47のPiu mossoであろう。前の小節の倍のテンポで駆け上がり、ペザンテで半分に落とし、50のPiu mossoでまた倍に上げ一気に駆け抜けていった。従来の演奏だと、世界が終るように、あたかも、老いも若きも、持てる者も持たざる者も、死の前では万人が等しくなるというように響くこの終結の音楽だが、最後まで満ち足りた明るい光の世界に引き上げられるような感興が一貫した。
第4楽章「原光Ur-licht」の詩は「薔薇」という言葉で始まる。ドイツ神秘主義詩人で「薔薇」といえばおそらく多くはシレジウスを想起するだろう。薔薇は、なぜ、咲くのか。そこに理由はなく(Ab-Grund=理由GrundがないAb)永遠に開花を繰り返すという詩だ。ドイツ神秘主義の詩作において薔薇は永遠に再生と復活を繰り返す自然の生命の象徴なのだ。自らもその自然の一部であると悟ることで苦悩から救済される、自然賛美、救済の実現、マーラーはこうした世界をこの交響曲で描いたのかもしれない。そんなことを実感させてくれた演奏だった。(多田 圭介)