札幌劇場ジャーナル

札響 第631回定期演奏会レビュー

2020年10月24日(土)札幌コンサートホールKitara (大ホール)

山下一史が指揮をした札響の10月定期を聴いた。当初この定期にはシトコヴェツキーが出演予定だったが、渡航制限のため来日不可能となり、まず飯守泰次郎に交代になった。さらに、直前に飯守が体調不良で降板になり山下の出演となった。曲目はウェーバーのオベロン序曲、ソリストに青木尚佳を迎えてのブルッフのスコットランド幻想曲、休憩を挟んでベートーヴェンの交響曲第6番「田園」。演奏は、ソリストの青木も含めていずれの曲も作為がない。音楽そのものが語りかけてくるようで本当に素晴らしい時間を過ごさせてもらった。

札幌交響楽団提供

札響は、9月末から10月前半まで、主催公演の合間を縫って連日のように依頼公演が重なっていた。楽員も準備が大変だったことだろう。加えて海外からの渡航制限のため特定の日本人指揮者に仕事が殺到した。札響に客演した指揮者も札響での本番を終えてその日に移動し、翌日からまたリハーサルという状況があった。ここまで立て込むと、楽員も指揮者も一回の本番に情熱を傾けるのは難しくなる。当然、この間の札響は、やや集中力を欠いた演奏が多かったように感じられた。印象に残ったのは、名曲コンサートでハイドンのトランペット協奏曲のソリストを務めた鶴田の柔らかで優しい音楽くらいだろうか。そんななか半月ほど間隔が空いたこの定期は、久しぶりに音楽の喜びが溢れるような演奏になったのではないか。

オベロン序曲は繊細ぶったところがなく胸がすくように躍動した。冒頭、HrにこだまのようにVnが応えると、そこに妖精の国を暗示する木管が重なる(※譜例①)。

譜例①

ここはpppの指定なのだがmfでくっきり鳴らされた。こうしたところが骨格が強い印象につながっている。指定とは違うのだが、まったく嫌じゃない。他方で柔らかさもある。64小節からのClに出る第2主題第1楽句を導く弦の和音の夢幻的な感触。楽員が音楽をよく感じているのが分かる。Vnの第2主題第2楽句には小さな変化がつけられる。4小節のフレーズを2分割し2回目を強くする(※譜例②)。

譜例②

ほんのわずかなのだが堪能させてくれる。こう聴くと、オベロン序曲は魔弾の射手やオイリアンテの序曲に劣らない魅力作に聴こえる。

続くスコットランド幻想曲は、さらに素晴らしい。ここ1年ほど、札響の定期と名曲シリーズでは協奏曲にこれといった演奏が少なかった。1年前のVn.竹澤、2月のPf.トーマス・エンコが数少ない鮮烈な印象を残した演奏だが、青木はそれに匹敵する水準だった。演奏が始まると、悠久の時の流れを見るような思いがした。たんなる個人の自意識を無限に超えた、世界の大きさ、美しさに対する畏敬の感情が一貫しているのだ。札響で聴いた同じVn協奏曲としては、1年前の、まるで頂点へ昇り詰めんとする竹澤恭子の気迫と好対照であった。

札幌交響楽団提供

Graveの序から第1楽章に入ると、Adagio cantabileという指示だが、もうreligioso(宗教的)とでもいいたくなるような情緒が漂う。オケも分厚くコラールを奏する。オベロンと同様にここもpp指定なのだがたっぷりと鳴らされる。フォルテのHarpと対等に響く。透明な和声を経て青木のVn独奏が入ると音楽に温かい血が通うのを感じる。青木のVnのリリカルな瑞々しさが名状しがたい。静かなのだが息の長いフレーズが強靭に息づいている。懐かしい民謡の引用だが、もっと抜け切っている。天空の音楽とでも言えようか。唯一惜しかったのは、楽章最後の動機のリズムが16分から32分に変わるところ。金管が16分ぎみに出てしまいそれを聴いたティンパニが慌てて合わせたのが聴こえてきてしまった。主題を構成する動機のリズムがここだけ変化するのでこうした箇所のデリケートさは大切にしたい。

2楽章は収穫祭のような風情が会場に満ちる。印象深かったのは、主題が発展する箇所のVn独奏のFlとの掛け合い。ト長調に転じる箇所でFlが、まるで鳥が飛んできて話しかけるように愛らしく出てくる。ここでキリッとした輪郭の冴えた響きを聴かせたFlの川口は、合いの手に回るとすぐに柔らかな響きに変えた。続いてVn独奏と3度で重なる箇所。3度下を吹いているときは輪郭をぼかし、次いで上に交代するところで明るい音に変わる(※譜例③)。

譜例③

先日、広上が出演した定期の際にも書いたが、川口のFlの木の感触のような響きは本当に素晴らしい。19世紀の初頭、フルートは木製だったのだ。最近のFl奏者は名手になるほど、みな同じような音になるし、どんな音楽でもいつも口笛のように気軽になってしまいがちだ。川口は田園のピッコロも素晴らしかった。

スコットランド民謡が連綿と歌われる第3楽章も祈りのような感情は一貫する。楽章全体が賛歌のように聴こえる。独奏がオブリガードに回るとHrの独奏もまた澄み切った音楽を聴かせ、P animatoではHarpの目が覚めるような鮮明なアルペジオも印象に残った。

後半の田園もよかった。特に終楽章。展開部から感謝の歌が流れ出る。ここも弱音指定なのだが、おおらか。繊細ぶったところがないのがプラスに作用している。続くCl.も嬉々としている。展開部終わり低弦にも痺れた。ディミヌエンドが指示されているが、これを無視し、存在感のある響きで再現を導いた。人間の手が届かない自然に抱かれるような思いがした(低弦は終止部へ向かう166小節~も同様だった)。コーダのsotto voceもおおらか。デリケートぶらないのが本当に気持よく聴ける。第1楽章では終止部第2群終りの満ちてゆくハーモニーの充実にも惹きつけられた。ふと視界に入った自然美に魅了されるように聴こえる。

札幌交響楽団提供

3曲全てに言えることだが個人のちっぽけな自意識がまったく聴こえてこなかったことが深い感銘につながった。音楽を聴いていて、そうした自意識が聴こえてしまうとその瞬間に飽きてしまうのだが、山下と札響、そして青木の音楽にはそれがまったくなかった。これは言葉で言うは易しいが簡単なことではない。自意識を超えた、といってもたんに巨大なものを見ればよいというわけでもない。まずは、人間不在の途方もない世界(自然)の大きさ、広大さがあり、そして、そのなかの、ほんの塵のような人間。このような視点なくして、世界と個人、自然と自意識、つまり世界に対峙する個人の物語など始まりようがない。泣ける○○、元気が出る○○。文化を語るときに巷間濫用されるこうした言葉はただたんに自意識の問題でしかない。即効性のある治癒薬のようなものではあっても物語ではない。すべてを、たんなる個人の自意識の比喩にしてしまえるなら、文化など必要ない。世界の物語、これを想像し得るもののみが知性であり、文化を産み出し得る。山下と札響、そして何より、Vnの青木尚佳の音楽に触れてこんな当たり前のことを考えさせられた。

付け加えると、当日のHr山田の見事な吹奏には唸らされた。オベロンの冒頭、スコットランド幻想曲のソロ、田園に連続する難所、いずれもほぼ完璧であり、安心して音楽に浸ることができたのは彼の貢献が大きい。

(多田圭介)

 

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