札幌劇場ジャーナル

Noism Company Niigata ストラヴィンスキー没後50年「春の祭典」 他 公演レビュー(@札幌文化芸術劇場 hitaru)執筆:多田圭介

2021年7月31日(土)札幌文化芸術劇場 hitaru

新潟の公立文化施設、りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館に本拠地を構えるダンス・カンパニー、Noismによる「春の祭典」を鑑賞した。今年ちょうど没後50周年にあたるストラヴィンスキーが作曲した本作「春の祭典」は、自然が再生する春先に行われる集団的犠牲(集団の安定のために個人の生贄を捧げる)という基本的コンセプトを維持しつつ、世界中の最も創造的な振付家たちが襷を繋いできた。ヴァーツラフ・ニジンスキー、マリー・ヴィグマン、モーリス・ベジャール、ピナ・バウシュ、マーサ・グラハム、大島早紀子。ここに本カンパニーを率いる金森穣版が連なるかどうかという意欲作である。

撮影:kenzo kosuge 提供:札幌文化芸術劇場 hitaru

全体の印象から述べると、まず金森版の振付に関しては、師であるベジャール版からの豊富な引用を交えつつ、さらにピナやニジンスキーへのオマージュをそこに加えた印象が強かった。その意味では「パッチワーク的」と言えよう。この姿勢は、金森による振付の基本スタンスである現代的な状況の表出と響き合うところがある。なぜなら現代は「ポストモダン」であり、ポストモダンとは人間は徐々に進歩するものであるという人間観への懐疑を含むものである。それゆえ、その人間観に基づいた表象は「進歩の否定」を必然的に露わにする。よって、そのスタンスと過去の作品のいわば継ぎ接ぎ(=パッチワーク)とは響き合うのだ。ニジンスキーやベジャール、グラハムらの視線が人間の原初的な根源へとまっすぐに向かうのに対して、金森はこの現代のポストモダン的状況を抉り出すことに専念する。

このスタンスは「春の祭典」の上演史的に言えば、ピナ・バウシュを一歩先に進めようとするものであろう。ピナの主題は1980年代における女性差別に対する女性の側からの反撃であった。ピナは、男性中心主義を「近代」と捉え、その「外部」に女性的なものを対置する。そして女性性に脱近代の可能性を求める。だがしかし、近代的な男性中心主義のオルタナティブがその反動としての女性中心主義であるというのは、それ自体、倒錯した論理であり、20世紀的に過ぎる。近代のオルタナティブは、男でも女でもない「匿名社会」ではないのか。金森の「春の祭典」のスタート地点はおそらくはこの地点であろうと思われる。

幕が上がると、踊り手たちは一様に青白い顔とボサボサの髪で登場する。まるで精神病棟の待合室さながらにである。互いが互いの顔色を窺いつつ得体のしれない恐怖に怯えている。いやがうえにも孤独と恐怖が強調される。金森版では、明確なリーダーも集団が集団であるために必要な儀式も存在しない。バラバラの「個」が剥き出しになって互いを恐れている。

第二部に入ると、惰性の流れで生贄が2名選ばれる。その一人、井関佐和子がもう一人を庇いつつ犠牲を引き受けようとするが、そのもう一人が井関を裏切り、井関一人が矢面に立たされる。周囲は集団で井関を糾弾する。が、そのさなか、さらに外部からの脅威が到来し、井関を糾弾していた他の踊り手が瞬時に犠牲の立場へと反転する。ここで幕。この推移が手に取るように伝わるのは優れた演出効果の賜物だろう。

これは、現代の情報論的に言うなら”Twitterであり、戦争論的に言うならテロリズム的な「春の祭典」である。Twitterでは、誰もが他者を糾弾する立場であると同時に、空気を読み違えたその瞬間に、誰もが即座に糾弾される立場に反転しうる。戦争論的に言えば、戦線の前方と後方の区別が消失した現代の戦争、つまりテロリズム的な舞台である。人間の原初ではなく、現代社会の「ひずみ」やそこでの孤独や苦悩を切り取るという金森のスタンスは、十分な演出効果を発揮したと言える。おそらくこの演出の賞味期限は短いであろうが、だからこそ「現在」に切り込んだと見なすこともできる。

ただ、筆者は全編を通して、この舞台で踊り手たちが醸し出す「孤独感」に違和感を覚えた(筆者の理解不足もあると思われるがあくまでも感じたままに記す)。この舞台の孤独感や精神的外傷のイメージは、90年代に俗流心理学ブームを背景に流行った「引きこもり」の匂いが強すぎる(野島伸司、幻冬舎文学etc.)。「過去に〇〇という外傷がある」ということをアイデンティティとし、そうして形成された自己像への承認を求める物語を雛型としている(ただ、金森版でその承認それ自体は与えられないのだが)ように思われる。

だが21世紀の現在‐あの俗流心理学ブームから20数年‐世の中はどうなったか。むしろ、現在の私たちは過剰なまでに「繋がれている」。SNSにアクセスすれば、薄っぺらいトラウマ語り、自分語りが溢れ、それに「そのままでいいんだよ」という承認まで即座に与えられる。いや事は正確に見なければならない。90年代ですらも、「孤独」は建前で、むしろセラピー的な繋がりを効率よく換金するために孤独感やトラウマの捏造がなされていたのではないか。そして現代の情報技術がそんな建前すらも不要にしてしまったのではないか。日本人にそもそも「個」なんてなかったのではないか。

だが、90年代と今のコロナ禍に共通する固有の不安感を見出すことは、やはり可能だ。それは、おそらくは、「つながり」の手段が変化しつつあるその一瞬、それが「見えづらくなった」瞬間の不安感だと言える。金森版の春の祭典に一貫するのは、この一瞬の不安感の(やや拙速な)過大評価。まずはこう見ることができよう。だが、不透明で分かりにくい世の中に耐えられず、「分かりやすい正義」という非日常に逃避することで解決を図ろうという安易な態度が退けられたことは評価に値するように思われる。

議論をもう一歩先へ進めよう。金森が現代社会をまるでTwitterのような他者性の高い社会だと見ているのは間違いない。だが、その見方自体になにか偏りはないか。むしろ、現在の私たちは、Twitterのようなガチで他者性の高い空間に野ざらしにされる一方で、Facebookのような、元々親しい人とだけ安心してコミュニケーションをとることもできる。むしろコミュニケーション形式はこの両極に二極化してはいまいか。この両極に振れたコミュニケーションの形式しかインストールしていないことのほうが、より本質的な問題なのではないか。この認識があれば、金森版は、春の祭典に続けて別の演目を繋げ、そこで、Twitter的とFacebook的の中間的なコミュニケーションの可能性を提示するという方向性もあったはずだ。この日のプログラムは、休憩の後に「春の祭典」、そして前半には後半とあまり関係がない演目がメドレーのように組まれた。この「春の祭典」をもう一歩レベルの高いプロダクションにするためには、Twitter的社会の「限界」と「その先」を提示することにあるのではないか。

撮影:kenzo kosuge 提供:札幌文化芸術劇場 hitaru

さて、休憩前の3つの演目で「春の祭典」と同様な同時代性を見出すことができるのは、「BOLERO 2020」であろう。金森版のボレロは映像作品である。スクリーンには、それぞれの自宅と思しき(セットだが)部屋が分割され均等に並んでいる。ステイホーム中の個々人が思いのままに踊り、そして最後にスクリーンが一つになりそこで全員が手を取り合う。Zoomを介したコミュニケーション、そしてコロナの終息後に手を取り合う様子を彷彿とさせる。振付には「春の祭典」よりもはっきりとそれと分かるベジャール版からの引用が含まれている。ボレロの主旋律に合わせ腕で汗を拭う所作などはベジャールへのオマージュと言ってもよい。ベジャール版では一人の踊り手が、他の人々のために犠牲を引き受ける。それに対して金森版では、苦悩も孤独も全員で分かち合おうという表現が強調される。「春の祭典」同様にcon-temporary(同‐時代的;共‐時的)な表現を目指していると言える。だが、「コロナが終息したらまた集まりたいね」。果たして、これは創作物や物語で表現しなきゃいけないようなことだろうか。このメッセージが、私たちが世界により深く潜るきかっけを与えてくれるだろうか。この舞台に触れて世界の見方に何か変化は生じるだろうか。

金森は「春の祭典」でも他人の恐怖を強調してはいるが、彼の舞台に真の「他者」はいるだろうか。他者の脅威を引き受けていると言えるだろうか。金森の舞台には「裂け目」が存在しない。疑似的な孤独感を媒介に世界が円環の内に閉ざされている。いや、あるいは、金森の描こうとするポストモダン的状況そのものが、すべてが入れ替え可能になり、何を選んでも変わらない世界(日常の「外部」を失っている世界)であることを正しく表現するがゆえに、彼の舞台には「外部」がないのか。たしかに、「性愛」や「死」によって安易に外部を開こうとするなら外部を失ったポストモダンという状況認識それ自体を捨てなければならない。外部を開く何らかの装置の安易な特権化に慎重にならざるを得ないから金森の舞台には外部がないということなのか。

金森は何を考えている演出家なのか。気になりTwitterを覗いてみた。そうすると、この「春の祭典」の新潟・埼玉公演の直前の時期のこんな投稿が見つかった。

「劇場では非日常的な感動を届けなければ。[略]日常と呼ばれる社会生活が変化を強いられ、困難を極めているからこそ、来場頂いた方には非日常的な感動を届けなければと思う。それがコロナ禍を生きる舞台人の使命だと思うから。」2021619日の金森穣のTwitterより)

仮にこの金森の言葉を真に受けてよいとするなら、金森はポストモダン状況において日常が外部を失ったという状況認識を持っているのではない。むしろ、日常の外部(非日常)に観客を連れ出すことが舞台人の使命だと語っている。しかし金森の舞台には外部がない。金森のこの言葉をどう理解すべきか。少々考察しよう。

まず、そもそもだが、果たして、日常に「外部」は存在するのか、いや存在すべきなのか。この世界の外、つまり「ここではないどこか」という純粋無垢な領域が存在するという思想を21世紀の現在に主張するのはいかなる事態であるのか。

社会学では1960年代までを「政治の季節」という。政治の季節とは、反戦運動や学生運動を通して「世界を変える」ことを人々が信じていた時代のことである。言い換えると、この日常世界の「外部」に純粋で正しい世界が「ある」という信念に支えられた世界観である。しかし、いわゆる浅間山荘事件などを通して、日常の外部に純粋な領域があるというのは「嘘」であって、かえってそういう信念は危険なんじゃないかと人々が気づきだしたのが1970年代以降である。この時代を社会学で「文化の季節」という。なぜ文化なのか。「世界を変える」ことを諦めた人々が、文化のなかで、せめて「自分の内面を変える」(チューニングする)という方向に向かったからだ。この時代にサブカルチャーが「ここではないどこか」を仮構する役割を一手に引き受けたのはよく知られていよう。

そして90年代、ここではないどこかを仮構する役割はインターネットに移った。世界は変わらないが、この日常の外部に耽溺する夢を与えてくれるのが当時のインターネットだった。前世紀末にコンピューターが担った最大の期待はこれであった。だからこそ、当時のインターネットでは私たちは本名ではなくハンドルネームを使い、そこでもう一人の自分を演出したのだ。だが、20年代の現在はどうか。私たちは、情報技術を日常の「外部」を仮構するためではなく、むしろ日常(今ここ)を豊かにするために、多様化するために使っている。いまネットに接続すると私たちは過剰に他者と接続されるようになっている。21世紀現在、私たちは情報技術を「ここではないどこか」を仮構するためではなく、今ここを豊かにするために使用するようになっている。これは、情報論的に言えば、「仮想現実から拡張現実へ」というトレンドの変化に表れていよう。私たちは、この世界(日常)の外部に純粋な領域を求めることの危険性を学んだ。そして情報技術に、あるいは虚構に、この世界(日常)を深く掘ることを求めるようになりつつある。

だが、それでも私たちは、世界の絶対的現実、言い換えるなら「世界(日常)の「外部」」が存在することを頭から消してはならない。それに触れることは絶対にできないのだが、それでもたしかに存在する(はずの)「外部」を頭から捨て去ってしまうと、私たちの世界からは美も崇高もなくなる。もし、21世紀の現在、非日常=日常の外部を語るのであれば、この程度の状況認識がないとたんなる空回りの謗りは免れない。金森穣の「非日常」という言葉には、この全ての認識が欠けているのではないか。そして欠けているがゆえに、「日常が外部を失ったポストモダン的な舞台の表出」という好意的な解釈を、結果的に(あくまでも結果的に)呼び込むことになったのではあるまいか。金森は、非日常という言葉で何を謂わんとしているのか。現代における虚構の役割をどう考えているのか。筆者にはそれが見えないまま終演してしまった。できれば対談の機会など設けることができれば懸隔は埋まるのかもしれない。だが、ただ舞台だけからそれを受け取りたいようにも思う。もちろん、Noismの踊り手のレベルは高いし演出も洗練を感じさせる。hitaruの広い舞台を生かした空間の使い方も手練の仕事である。それが高い評価を受けていることに納得できる面は十分にある。だが、それらがなんのためなのか、言い換えると、現代における虚構の役割とは何であるのか、(あくまでも筆者は)それを舞台から見出すことができなかった。筆者の力量の不足(理解・洞察力不足)も当然あるだろう。それゆえに、金森穣が創造するNoismの活動にこれからも関心を向け続けたい。

付論:「夏の名残りのバラ」の演出手法について

本公演の最初に上演された「夏の名残りのバラ」では、デュエットの相手役がカメラを持ち、井関佐和子が楽屋で化粧や準備運動を行いつつそして舞台へ出てゆく様子がスクリーンに映し出された。舞台へ歩み出る演者の緊張、そして意を決する表情などはたしかに観客に興味を惹くものでありかつ哀切さもある。だが、筆者は見たくなかった。どんな状況でも舞台で全力を尽くすプロの仕事だけをみたい。実のところ、こうした楽屋裏をチラッと見せて、観客に自分もその中にいるように錯覚させて共感を集める手法は、90年代のテレビバラエティの手法である(「笑っていいとも」やオーディションバラエティ)。しかも、テレビがまだ輝いていて、一般の人がテレビ業界に憧れを抱いているという前提でのみ通用した手法である。日本のマスメディアはスポーツの国際大会の報道でも戦術的な技術論よりも選手の苦労話に時間を割きすぎる傾向がある。メンタリティがそれに近いのだ。この舞台に続いて、俗流心理学ブームの名残りを感じさせる「春の祭典」を観ると、金森という演出家は、なにか90年代のテレビ的な感性を強く残している、あるいはそれへの憧れやノスタルジーがアイデンティティになっているのではないかなどと想像させられたのである。

(多田 圭介)

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