<Kitara室内楽シリーズ>カルテット・アマービレ演奏会レビュー 8/27@Kitara小(執筆:多田圭介)
いま、日本の若い世代の弦楽四重奏団がちょっとすごいことになっている。クァルテット・インテグラ、レグルス・クァルテット、少し上の世代に目を移せばクァルテット・アルモニコなど綺羅星のような団体がひしめきあっている。彼らが奏でるハイドンやモーツァルトからは、かつての名だたるカルテットがなんとなくビブラートをかけて歌っていただけのパッセージから、驚くようなデリケートで多様な表情が聴こえてくる。和音の一つ一つから、この音にこんな感情が刻みつけられていたのか、と聴くたびに発見がある。弦楽四重奏こそ、現代の若くて優れた団体で聴くべき分野だとそのたびに痛感させられる。だが、そのなかで頭一つ抜けているのが、カルテット・アマービレだろう。
カルテット・アマービレには他の団体にはない魅力がある。それを言葉にするのはとても難しいのだが、Kitaraで彼らのリサイタルを聴いて、なんとか言語化してみたくなった。そうさせる力がある演奏だった。まず、思い浮かんだ言葉は「現代的」。この現代的とは多義的である。まず技巧が優れているという意味でそうなのは言うまでもない。が、それ以上に、彼らの音楽が持つ「優しさ」は間違いなく現代のトラフィックに合致したものだ。彼らは最高の技術と鋭いスコアの読みを誇りながら、決して頭ごなしにそれを主張しない。現代の優れたカルテットの多くがそうであるような、鋭利な響きで聴く者に切りかかるような雰囲気が、彼らにはない。聴き手に決して無理を強いないその優しさの感覚は間違いなく「現代的」と言えるものだろう。とはいえ、だからといって柔和な音楽一辺倒というわけでは、まったくない。むしろ、だれよりも、鋭敏に、深く、緻密に音楽を抉りながら、それを露骨にそう意識させない上質さが彼らの音楽の核心だと言える。
8/27に彼らが演奏するハイドンを聴いて、その現代性は「豊かさ」なのだと感じた。本当の豊かさとは何か。これまた言語化するのが難しい。けれどちょっと頑張ってみよう。アマーティア・センという経済学者がいる。彼の重要な概念に「ケイパビリティ」というものがある。センはこれこそが豊かさだと言っている。日本語では「潜在能力」が定訳になっているが、ちょっとニュアンスが違う。たとえば、ある場所に住んでいて、そこで経済的にも文化的にも豊かな生活を送っている人々がいるとしよう。そのなかのある人には移動の自由が禁じられていて、そこに住むしかない。が十分に恵まれた生活ができている。他方である人にはどこにでも住めて、「あえて」別の場所で貧乏生活を選ぶこともできる。センは、後者こそが本当の意味での「豊かさ」だという。ちょっと難しく(正確に)いえば「現実に選びうる、でも実際には選ばれなかった選択肢の束の厚み」=「ケイパビリティ」こそが、人間の豊かさ、もっと言えば「尊厳」の値を決めるというのだ。
お金があるから、その限りで最上のクルマを買う。お金があるから、その限りで最上の家を買う。そこには自分の意志で自由に「あえて」何かを選ぶ自由の余地がない。ケイパビリティがない。本当の豊かさは、選ぶことも可能だったが実際には選ばれなかった選択肢の束がどれだけ厚みを持っているかで決まるというのがセンの見立てである。
さて、遠回りになったが、筆者がカルテット・アマービレを聴いて感じた、彼らの音楽の「豊かさ」は、まさにこの「ケイパビリティ」だった。彼ら/彼女らは、最高の技術を持っている。現代の優れたカルテットの多くは、優れているほどに、過剰なほどに精密な音(あえて「音楽」とは書かない)を誇示しがちだ。ときにそのソリッドな音はそれ自体が目的になっているように聴こえることもある。そのとき、音楽は聴き手の耳を疲弊させる。最高の技術を持っているのだから、その限りで最高の精密な音を出す。この発想には、ケイパビリティがない。カルテット・アマービレはどうか。彼らはいくらでも鋭利な音を出すことはできるが、「あえて」それを封印する。だが、聴き手には彼らの腰にはたしかに真剣がぶら下がっているのも見える。持っているが抜かない。いまそれを使う必要は必ずしも、ない。この選択肢の束の厚みこそが彼らの音楽を現代的で、豊かで、贅沢なものにしている。そう、いま書いて気づいた。「贅」の感覚。これがピシッとくる。
さて、前置きが長くなった。筆者が8/27にKitaraで聴いたカルテット・アマービレが奏でる「豊かさ」を実感したのは、プログラム1曲目のハイドンの「ラルゴ」op.76-5の最初を聴いてすぐだった。第1楽章の第2部(実質的な展開部だが厳密にはソナタ形式ではないので第2部と書く)には典雅な空気を切り裂くように32分音符の嵐が出てくる。ここは今の上手いカルテットはどこもマシンガンのように疾風怒濤の32分を撒き散らす。だがアマービレは、音楽の急展開を十二分に実感させながらも、攻撃的にならない。どこか物腰の柔らかさがあるのだ。これこそが前述のケイパビリティ。しかも過度に謙遜したような物腰の柔らかさではなく生まれながらに身についているような品格がある。
振り返ると楽章の最初からそうだった。6/8の柔和な主題には、何箇所かfz(フォルツァンド)が指示されているが、それも強調されない。弱音の指定も過度にそうしない。あくまでもなだらかで優しい「歌」が聴こえてくる。だが、かつてのスメタナのような、4人が雰囲気で歌っているだけの演奏とは一線を画す。和音の響きのどこを一つとっても「こう響かせよう」という意志がはっきりと感じられる。
32分音符の嵐の後にVaに主題が戻る箇所のキリッと冴えた表情も素晴らしい。Vaは中恵菜。驚くほど上手い。ピンと張ったアウフタクトは最初チェロの高音域なのかと耳を疑った。「あれ?ここヴィオラだったよな?」と顔を上げるとやはりヴィオラが弾いている。中恵菜のヴィオラは、アルカントやベルチャのVaに匹敵する上手さ。日本のカルテットの中ではおそらく最高レベルの奏者なのではないか。
第2楽章の曲名にもなっているラルゴも最高に優美。今度は一転してスコアの強弱を思い切って効かせる。もう硬軟自在。展開部冒頭のハーモニー(とVcの意味深いクレッシェンド!)も悲しくなるほど清澄。第3楽章メヌエットでは、トリオで心理的葛藤を聴かせる。ここでも鼓動が脈打つようなVcが実に生きている(Vcは笹沼樹)。フィナーレもVaとVcの単純な8分音符の刻みが驚くような軽妙さを聴かせるし、ダイナミクスの強調も思い切っている。がやはり優しい。面白かったのは、提示部の終わりに出てくる主題(76小節)では1拍目の裏からフォルテ(スコアは頭からフォルテ)だったのに、最後に同じ主題で4声同時にフォルテになる箇所(227小節)では頭から堰を切るようにフォルテ。こうしたところに決して杓子定規的ではないウィットもある。ハイドンの遊び心が本当に愉悦的に響く。唯一惜しかったのは、1st.Vnがアルペジオで上昇するときに何箇所か音程が甘くなったことだけだった(G.P.の直前のcisは明らかに低かった)。とはいえ、心が躍るような最上級のハイドンだった。
2曲目はシューマンの第3番。冒頭の名前を呼び掛けるような5度のモチーフの親密さや、ピアノ5重奏曲を先取りしたようなオスティナート音型の意味深さなど聴きどころが連続した。が、なぜかハイドンほど心に響かない。もちろん、演奏には十分すぎるほど気持ちも入っているし、凡百とは比較にならない水準。きっと、筆者が個人的にシューマンの室内楽が苦手なので、それが障壁になってしまったのだと思う。シューマンは「女の愛と生涯」など素敵だと思う作品は何曲かあるのだが、こと室内楽はどうにも受け付けない(理由は波紋を呼びそうなので割愛)。こうした優れた演奏で開眼するかと思ったが、筆者の気持ちの準備不足だったかもしれない。
それよりも休憩後のベートーヴェンの第12番が素晴らしかった。彼らはいま王子ホールでベートーヴェンのチクルスを敢行中で、音楽の掌握度も響きの充実度も大変なものだった。印象に残った箇所をいくつか挙げよう。
まず冒頭。アレグロになって主題がVaから掛け合いになる。このVaの充実はどうだろう。雄弁だが、優美な感触も強い。内省的なベートーヴェン後期の入口の作品から、まるで英雄交響曲のような大きさが聴こえてくる。第2主題の再現になる183~も同様。対位的な掛け合いには精神が満ちてゆくような充実がある。続いて第2楽章。Vcから順に1声ずつ出てくる。ppだが王者の風格がある。Andante con motoになる第2変奏は躍動的。テンポが速い。1拍を8分で取ると100ちょいの感覚。アンダンテにしては速くないか?と感じたが帰宅してスコアを開くとここは4/4のアンダンテだった。おそらくだが、多くのカルテットは、この第2変奏を、1拍を8分でとってアンダンテに聴こえるように(♪=76程度)演奏しているはずだ。だが、演奏史的に♪=76程度で演奏してきた歴史があるので、突然四分=76で演奏すると、(仮にそれが正しかったとしても)聴衆からは受け入れられない。ぎりぎりの選択として四分=50で演奏したのだろう。こうしたところにも彼らの四角四面ではない柔軟さがある。スコアに関しても勉強になった。他にはスケルツォの最初のスタッカートの応答の対話のようなリズムのよさ、フィナーレ冒頭の「これしかない」というようなシンコペーションの呼吸感、提示部最後の躍動するリズム、絶妙の間合い(~73)、展開部最後のVaとVcのユニゾンの精妙な美しさにも鳥肌が立った(160~)。後期の作品だが、彼らのop.127には、やはり中期のような精神の充実と遊び心、そして愉しさがある。
ベートーヴェンの後期は基本的には、いわば「奉納芝居」である。ちょっと説明すると、河原者の芝居には「門付け芝居」と「奉納芝居」がある。「門付け芝居」は金持ちの家の前に人を集めておひねりをもらう娯楽芝居。「奉納芝居」のほうはといえば、こっちは退屈している神様を喜ばせるための芝居で、大衆を喜ばせる芝居ではない。ちなみに本邦の大相撲は「奉納芝居」だったものが歴史的に「門付け芝居」に降りてきたものだ。なんでこんな話をするのかというと、ベートーヴェンの後期四重奏曲はこの区別でいうと間違いなく「奉納芝居」に該当する。だが、カルテット・アマービレからはそれに尽きない楽しさが確かに聴こえてくるのだ。「奉納芝居」と「門付け芝居」を融通無碍に往復する。こうしたところも、やはり最初に書いた彼らの魅力、すなわち「ケイパビリティ」の一種と言えるだろう。
カルテット・アマービレのメンバーは皆まだ若い。録音もまだない。だが、恐るべき完成度と成熟を感じさせる。挑戦の姿勢もあるし、「CDでみんなこうやってるから」というような惰性もない。だから、終演後にまたすぐに違うプログラムで聴きたくなる。そんなカルテットだ。札幌にもぜひまた来てほしい。
(多田圭介)