札幌劇場ジャーナル

<特別インタビュー>クァルテット ベルリン-トウキョウ(ふきのとうホール レジデント・アーティスト)

STJセレクト

多田:昨日と一昨日、2日続けて素晴らしい演奏を堪能させていただきました(※注)。今日はお疲れのところではございますが、よろしくお願いいたします。さて、ふきのとうホールのレジデント・アーティスト第2期も中盤に入りました。様々な作品をお聴かせいただいていますが、特に第1期から継続されているベートーヴェンはいよいよ終盤ですね。ベートーヴェンは自身がピアノの名手でありピアノの作品は早くから書いていますが弦楽四重奏曲には慎重で最初の作品がop.18ということになります。彼自身にとってもおいそれと取りかかることはできなかった分野だと言えます。ピアノソナタにややわがままな側面が出ているとすれば、弦楽四重奏曲には客観的で厳格な側面が表れているとよく言われます。まずは弦楽四重奏のオーソリティとして、ベートーヴェンの四重奏曲について総論的な印象をお聞かせください。
※注 2022年11月5日、6日にふきのとうホールで開催された演奏会を聴いた翌日にインタビューを行った。

写真提供:六花亭

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲について

松本:ベートーヴェンの四重奏曲は、前期・中期・後期と3段階に分かれます。そこに彼自身の人生というか生き方の視点の変遷がはっきり表れていると思います。ハイドンの四重奏曲も曲数が多くてそれぞれキャラクターも異なっていて魅力的なのですが、特にベートーヴェンの16曲はどの曲一つをとっても「ここはあれと似てるからこう応用できる」という曲がまったくないんです。ラズモフスキーの3曲をとってみても、よくここまで多様なアイデアが出てくるものだと驚くばかりなので、敷居は高いです。もちろんハイドンも高いですけどね。

多田:一曲ごとに独立したアイデアが貫かれてるのは本当にそうですね。ハイドンは特にエステルハージ時代は似た形式のなかで細かな差異を楽しむような曲を書きましたがベートーヴェンにはそれがないですね。独立性ということでいえば、今挙げていただいたラズモフスキーは始まり方一つとっても驚異的です。7番はチェロの順次進行、8番は「パン!パン!」という和音に続いて跳躍進行、9番は静かな和音の連続です。どこを取っても独立した作品というのは、そう感じます。最初のop.18の6曲もどれも似てないですね。

松本:はい。畏れ多いくらいです。

多田:畏れ多いというのは、やはりその感覚ありますか。ピアニストにとってはベートーヴェンは子供の頃から自然に触れる音楽だと思うのですがカルテットの奏者にとってはそうじゃなくて意を決して取り組む作品のように感じます。守屋さんはいかがですか?

守屋:ハイドンやモーツァルトを弾いているときとまったく感覚が違います。私はまずピアノでスコアを弾いてみるのですけれど、まずもの凄く入り組んでいます。容易に前に進めません。ハイドンは旋律があってそれを支えるのがこれで、と透明感があります。ベートーヴェンの場合は最初期から入り組んでいてまさに森のようです。ソリストがいてスポットライトを浴びてそれを支える人がいるというものではないんです。それぞれがものを言います。フランス革命後の民主化運動のようです。

多田:1st.Vnが一番下を弾いたり普通に出てきますね。

守屋:そうなんです。それにラズモフスキーの第2番(op.59-2)の緩徐楽章あたりは、宇宙と言いますか、夜空の果てしなさのようになってきます。チェロが大地、ヴィオラに生命力があって、2ndに人間的なところがあって、1stが天から照らすようなところがあります。この世界全体のような大きさはすごいです。彼のメモにもあるのですが、理想を貫こうとすると、あまりに理想と違う現実に直面し生きづらい。あるときはヤケクソになったり、でも彼は人一倍人間が好きだったんでしょうね。自分はポリフォニックな性格だともよく言っていますね。笑ったと思ったら怒って、泣いて。それが瞬間的に入れ替わっていたり。カルテットもその入れ替わりが凄いですよね。人生の複雑な面を否定せずに音楽にそのまま出したというのでしょうか。よく「苦悩を突き抜けて歓喜へ」と言いますが最近よく思うのは「複雑(雑多)なものを突き抜けてシンプルなものへ」というのを感じます。理想はシンプルなのに、雑多な現実でそれを表現しようとすることは困難です。ベートーヴェンの音楽の根底にあるものはものすごくシンプルです。現実世界での課題の多さ、複雑さ、彼の性格でどうしても音楽も複雑になりますが、それを超えてシンプルなものに至ろうとしている。その世界に至るためのプロセスは非常に真剣です。耳の問題もあり、彼の人生はあまりに困難なことが多かったです。ですが、彼の音楽にはそれに打ち克っていく尋常ではない力強さがあります。ですので、弾くほうは当然自分の小ささを超えてゆく覚悟を強いられます。

多田:8番の2楽章はたしかに後期のような深遠さが最初に出てきた作品かもしれません。それと4人全員がソロ楽器みたいな感覚というのは、そこはハイドンとはまったく違いますね。

松本&守屋:はい。

多田:シンプルなことを言うと現実世界では嫌われて、処刑されるような難しさがあります。

守屋:本当は難しくないことをつい難しくしてしまいます。でもその葛藤を彼は受け入れて、シンプルなメッセージに至っていると思います。

多田:ベートーヴェンが4人の対等な対話のように書いたので後の時代の作曲家はすごいプレッシャーを受けたと思います。

守屋:たんなる旋律と伴奏のようには書けなくなったのはすごい影響力です。

前日と前々日のリサイタル(22/11/5・6)について

多田:総論の次に昨日と一昨日の演奏内容について伺わせてください。松本さんが「人生そのもの」と仰いましたが、ちょうど一昨日、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の最後の16番をお聴かせいただきました。第4楽章は重苦しい序奏の後に吹っ切れた明るいアレグロになりますが、最後の最後でまた自己問答するようなザザザザという濁ったモチーフが出てきます。会場でこの音楽はなんなのだろうと感じました。あそこはどのような気持で弾いていたでしょうか。

松本:死が間近だったので、ええと、私はあのザザザザよりもその後の最後の明るい箇所に惹かれます。私のバスパートなんて笑っちゃうくらいお決まりの書き方で、、ええと、

多田:定型文みたいになりますね。

松本:そうなんです、一番最初に書いたものですらあんなに複雑なのに最後にあのシンプルな音楽を持ってくるんです。あのザザザザは死を目の前にした最後のざわつきで、そこから土に戻るというか、リセットというか、そんな音楽に感じます。

多田:純化される前の最後の葛藤があのザザザザという感じでしょうか。あのザザザザは「せっかく吹っ切れたのにまたこれか」と感じることもあるのですが、

一昨日のQBTの演奏では、あんなに濁った音で書かれているのになぜか透明で純粋な世界にもう向かっているように聴こえたんです。それでどんな気持ちだったかお聞きしたくなりました。最後の単純な箇所は、死ぬ前に子供が遊んでいるのを眺めているような私にはそんな風に聴こえました。守屋さんはいかがでしょうか。

守屋:死なねばならぬのかという、、う~ん、

多田:muss es sein? ですか。(※編注)
(※編注:ベートーヴェンが第16番の終楽章の序奏部に書き込んだ言葉。)

守屋:はい、第3楽章で天の平和に至った後だけど、やはり運命とはいえ、死を受け入れねばならぬのかという、そこだと思いながら弾いていました。アレグロに入った明るさは彼の喜劇的な面が全面に出ていますが、でも自分に正直な人ですから、本心を大事にする人ですから「やっぱり死にたくない」というのが最後のザザザザに出ているように感じます。しかも繰り返します。その念の強さを感じます。

多田:死に対峙した音楽ということですね。喜劇という言葉についてもう少しお願いできますか?

守屋:彼は死に際して「喝采せよ、喜劇は終わった」と言ったとされます。彼にとっての音楽はシンプルで浄化されたものですが、困難続きでもそれを表現できた人生を喜ぶということではないでしょうか。

多田:あくまでも真剣な喜劇なのですね。一昨日はop.18-3も素晴らしかったです。最初の7度跳躍の主題は、1st.Vnの守屋さんが完璧に出ましてゾクゾクしました。プログラムの1曲目でしたが、そこを聴いただけでリサイタルの成功を確信しました。あそこはもっと無造作に弾く人が多いですよね。練り上げられたフレージングには脱帽でした。

松本:そうなると3小節目の3声が加わる箇所がプレッシャーにもなりました。これを壊すことはできないと(笑)。でもみんな見事に着地できました。

多田:その直後の借用和音の全音符でルバートした演奏は初めて聴きました。しかも4人全員全音符だから音の高さは動いていないなのに完璧な呼吸でルバートしているのが分かるんです。アイデアは誰が出したんですか?

守屋:誰も出してません。自然にそうなりました。

多田:え?そうなんですか?リハーサルは「ここはこうしよう、ああしよう」と打ち合わせする進め方ではないのですか?

守屋:最近はそう(誰かが指示したり議論したりしない)なってきました。言葉で決めるということはほとんどやらないです。大きな呼吸で生まれるものを重視しているというのでしょうか。

多田:聴いてる側としてはこんなに細かいところまでカッチリ詰めてくるカルテットはあまりないという印象です。練習で鬼のように締め上げているのかと思ったのですが、長年の信頼関係で自然に仕上がってくるのですね。そうしますと、さらにお聞きしたいことが溢れてきます。昨日演奏されたモーツァルトのK.428は第3楽章の中間部でト短調になります。あそこはテンポを落として歌い崩す団体が多いですが、昨日はほぼインテンポでキリッと引き締まっていて感動しました。高貴な涙のようです。あそこも打ち合わせしたわけでないのですか?

守屋:はい。あそこは1st.Vnから出るので、僕の早いもの勝ちみたいなところでした(笑)。

松本:後に続くみたいな感じでした。QBTの場合、4人の個性が凄いので、完全に同じように続くことにはならないんです。4声それぞれに違う、それが楽しいという感じです。

多田:と、ご本人たちは仰っていますが、実際は、他のどの団体よりも厳しく統制された厳格な音楽に仕上がってきます。ですが、それでいて、フレッシュな生命感も決して失われないのはその辺りの奏者たちの感覚に秘訣がありそうですね。ともあれ、QBTのリハーサルの進め方はあまり言葉に頼っていないということですね。QBTのリハーサルの仕方についてもお話いただけました。

ベートーヴェンチクルスの次回の残された曲目について

多田:次にベートーヴェンに戻りまして、チクルスで残っている第12番についてお聞きかせください。後期の入口の作品になります。次のふきのとうホールでのリサイタルの曲目になると思います。札幌のお客さまへ一言。

松本:第12番は、後期の一曲目ということで、まだ、op.18(第1~6番)とか中期の雰囲気も残っているのですが、他方で彼の精神は後期の深遠な世界に変容しつつもあります。その意味ですごく難しいところがあります。出だしの全員のバランスなんて、聴きどころになるでしょうか?難しいんですけど、、。素晴らしい曲だからこそ、まだ消化しきれていないんです。2年前に一度取り組んでいま寝かせているところです。

多田:2年前はベートーヴェンイヤーでしたね。

松本:そのときに全曲演奏する予定でしたが途中でロックダウンで中止になりまして、残りは去年でした。その最初がop.127(第12番)でした。

守屋:僕も同じです。後期の入口の急激な精神の深まりが聴きどころで、かつ、最初の2つの楽章は抒情的な息の長い歌があります。第九の後の内面の歌です。第3楽章を経て第4楽章で昇華されていく偉大さは、彼の変ホ長調の特徴が素晴らしく表われています。「王なるもの」というのでしょうか。ボンからウィーンに出るときに「たとえ王座の隣にいても常に真理を偽ることなく」と詩を書いていますが、それが頭を過ります。

多田:そうすると、後期の入口ですが、英雄交響曲のような精神の充実もあるということですね。英雄も変ホ長調ですし。中期の充実と後期の要素が両方あるという松本さんの意見にも通じます。松本さんが仰った最初の和音とかもそんな偉大さが顕著ですね。

松本:聴きどころと言ってしまいましたが難しいんです。ちょっとズレたり、ううん、、。

多田:色々あるんですね(松本&守屋(笑))。op.18の6曲では、5と6が残っています。そちらはいかがでしょうか?

松本:5番は第3楽章のバリエーションが弾くたびにあのシンプルな旋律がこんなに変化するのかと驚いています。6番は後期に書いたのではないかという薫りがあります。彼のなかに眠っている未来の音楽を感じていただけたらと思っています。

守屋:次回のふきのとうホール公演1日目は、おそらく5と6番、後半に12番ということになる思います。いよいよふきのとうホールでのベートーヴェン全曲完結ですね!

ふきのとうホールの音響について

多田:つい先日、ハイドンのop.76の全曲のCDが発売になりました。演奏はもちろん録音も素晴らしく、このふきのとうホールで聴いているような印象でした。ホールについてどのような印象をお持ちですか?

松本:こんな演奏家の卵の意見ですが、私が弾いたことがあるホールでは世界一です。もう他にないです。他のホールだとちょっとチェロが聴こえにくいとか色々あるので、リハーサルで強めに弾いたり、コマのそばを弾いたり会場によって調整するのですが、ここのホールだけは、何もしなくても、弾いたそのままの音が一番後ろの席まで届くので、本当に幸せなホールです。ですが演奏家にとっては、誤魔化せないということでもあるので、そのぶん怖いホールでもあります。ほんの少しの違和感もすべて伝わってしまいます。鏡を見ているようです。

多田:弾いている人が「あれっ?」となっているとその空気まで飛んできますね。事務の滝田は元々音楽関係ではないのですが、取材で日頃ふきのとうホールに通っているので、たまに僕と一緒に東京の小ホールに行くと、「このホールはチェロが聴こえない」、「ここは濁って聴こえる」、とすっかり贅沢病を発症しています(一同笑)。「たいがいそうなんだよ、ふきのとうホールが特別なんだよ」、と言い聞かせています。

松本:GPではほとんどのホールではその会場の響きに合わせて調整する時間なのですが、ふきのとうホールでは音楽だけに集中できます。本当に稀有な、幸せなことです。

写真提供:六花亭

多田:低音のチェロ奏者ならではの意見ですね。私もまったく同意見で、演奏家の本質がそのままダイレクトに露わになる最高のホールという印象です。守屋さんはいかがですか?

守屋:全くその通りだと思います。奇跡の音楽ホールです。

松本:あ、自分はこんな音で弾いているんだ、と気づかされます。それがヒントになってまた奏法について考え始めたり、そんなことが起こるホールは経験したことがないんです。

多田:守屋さんもその感覚ありますか?

守屋:繊細な音色のパレットの種類が増える感覚があります。

多田:響きがすごく豊潤なホールですが、なぜか混ざったり濁ったりすることが一切ないんです。不思議です。私は2015年にこのホールができて、このホールで聴いてはじめてその演奏家の神髄に触れたと感じることが多発しました。それ以来、ずっとこのホールの大ファンなのです。今日は、演奏家の視点からこのホールのポテンシャルについてのお話を伺えて私自身とても幸せな気持ちになりました。

コロナの3年間について

多田:このホールでのレジデント・アーティストとしての出演も、コロナで中断になっており、昨日と一昨日の公演は3年ぶりでした。音楽家にとっては生命を絶たれたも同然の状況が続きましたが、この3年間、どのような心境でお過ごしだったでしょうか。

松本:それまでの生活(コロナ前)はベルリンを拠点にしてはいるものの演奏会で各地を転々としておりベルリンへは洗濯をしに帰っているようなものでした。この2年、ベルリンで四季の流れを実感することができたり、やっとベルリンで暮らしたという感覚があります。何もすることがないのですが、コンディションを落とすことはできないので、自分に何か厳しい課題を課そうと思って、バッハの無伴奏チェロ組曲を1日で6曲弾いたりしていました。筋トレみたいな気分です。学生時代以降、弾く機会も減っていたチェロの曲に改めて取り組むと、ソロの曲からカルテットと同じ構造が浮かび上がってくるのです。ここはバス声部で、とか、自分で弾きながら、「ここのヴィオラちょっと遅くない?」、「ソプラノ音程低くない?」とか(自分にツッコミを入れつつ)、カルテットの奏者としての自分を見なすきっかけにもなりました。

多田:バッハの無伴奏は特にその要素が強いですものね。3年間どうだったですか?はい、辛かったです、終わり、とならないのが素敵です。もちろん「今思い返すとそう言うこともできる」ということだとは思います。守屋さんはいかがでしょうか。

守屋:有意義な時間でした。すべてが流れてしまって最初はどーんと落ち込み、無常を感じましたが、自分に何があるかに気づき、健康で、音楽がある、仲間がいて、カルテットもできる。なんて幸福なんだ、それを噛みしめる時間になりました。あのヨーロッパの人々がマスクをするようになるとか周りの人への気遣いを見せるようになったり、うん。

多田:3年ぶりに演奏を拝聴しまして、とにかく内声まで各パートが雄弁になり、それでいて横綱のような円熟味もあり、すべての面で以前より数段高い階段を昇ったように感じます。コロナですべてが絶たれたこの3年がQBTの音楽に影響があったとすればどのあたりでしょうか?

松本:私も内声が雄弁になったのは実感しています。この3年間、リハーサルだけは許されていました。ひたすら毎日リハーサルなのですが、コンサートがないので、エネルギーをどこに向けていいか分からないのです。じゃあ、ということで、1曲ずつマイクを立てて録音して、それをグレゴー(QBTのヴィオラ奏者)が編集してYouTubeに載せてということを続けていました。白玉だけの単純な音楽も何度も何度も弾き直し、そしてその録音を聴き直すことになりました。それが、あくまで私の意見なのですが、自分たちの演奏を客観的に見つめ直すよいきっかけになったと思います。それが、弾き方やアプローチの仕方にもよい影響があったと思います。

守屋:トーンマイスターとして違う視点から音をよく聴いたことは大きかったと思います。

故・岡山潔先生について

多田:このホールの生みの親である故・岡山潔先生について一言ずついただけますか?

守屋:岡山先生は私の室内楽の師匠なのですが、このホールのレジデンス契約のお話をいただきました。1度の滞在で2つのプログラムという”ちょっと”高いハードルを、、

多田:「ちょっと」なのですか??

守屋:だいぶです(笑)。そのおかげでヨーロッパでどんなに苦しいことがあっても、このホールの公演を目標に頑張ってくることができました。QBTを続けることができたのも岡山先生のおかげなんです。コロナでまるで酸素が絶たれたようになりましたが、このふきのとうホールでの岡山先生が課してくださったハードルのおかげで生き延びることができたようなものです。

松本:私は東京にいたときは岡山先生と接点がなかったのですが、岡山先生と守屋との関係から、私もQBTのメンバーということで呼んでいただけることになりました。私は門下ではありませんでしたので、岡山先生との出会いは奇跡のような出来事でした。これほど室内楽に愛を注いでくださる先生がいたのだという、その存在の大きさに感動しました。その熱意と信念がこのホールに形として残ったと思います。その精神を継承してバトンを次の世代に渡したいという気持ちです。

多田:多くの音楽家たちから尊敬され、慕われている様子を見ると、私は門外漢ですが、それでも偉大さを実感せずにはいられません。札幌にもこんな素晴らしいホールをお残しくださいました。私も、この奇跡の音楽堂の魅力を記事でお伝えすることでそのお仕事を少しでも継承するつもりです。

次回公演へ向けたメッセージ

次回公演は23年10月13日、14日開催

多田:最後に定番ですが札幌のファンの皆様に一言。

守屋:ふきのとうホールでのレジデンス契約も第2期に延長していただけて、ほんとに私どもにとってこんなに贅沢なことはないです。来年の4月はヨーロッパでの仕事があり残念ながら帰国できないので、次の公演は秋になります。また秋にここで弾かせていただけるということでまた1年生きられます。そして、秋の公演、1年後ですが聴きにきてくださる皆さまからさらに成長したなと言っていただけるように1年間、日々を大切にしたいと思います。

松本:私の生まれ故郷の札幌にこんなに素晴らしいホールができるなんて思ってもみませんでした。室内楽はどうしてもコアな方には好かれるのですけど、なかなか日本では馴染みにくいところがあります。ですがこのホールでこそ堪能できる4声の響きの魅力をぜひ楽しみにご来場いただけると嬉しいです。いつも応援してくださっているファンの皆様に感謝の言葉しかありません。これまでもご来場くださっているお客さまにも少しずつでも前進する姿をお見せできたらなと思います。

多田:今日は長い時間ありがとうございました。QBTのファンの1人としてお話できたことを光栄に思います。これからも皆さまの真剣な音楽がこのホールで札幌のお客さまの心を揺り動かし続けることを心より願っております。

(2022年11月7日、札幌市中央区、六花亭札幌本店2F 喫茶室にて)
※本インタビューはさっぽろ劇場ジャーナル第8号からの抜粋です。

 

※「投げ銭」するための詳しい手順はこちらからご確認いただけます

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • 0 follow us in feedly

ページ最上部へ