札幌劇場ジャーナル

東京オペラシティリサイタルシリーズ B→C (札幌10/5、東京10/8)成田達輝 特別インタビュー

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目次

 

成田:成田達輝(ヴァイオリニスト)

澤橋:澤橋淳(公益財団法人 東京オペラシティ文化財団 音楽事業部プロデューサー)

多田:多田圭介(本紙編集長)

 

【B→Cについて】

多田 105日札幌のKitara小ホール、10月8日東京オペラシティで開催されるBCにヴァイオリンの成田達輝さんが出演されます。BCは、若手で実力のあるアーティストを招聘して東京のオペラシティで1998年から開催されているリサイタルシリーズです。Bはバッハ、Cはコンテンポラリーの頭文字で、「バッハからコンテンポラリーへ」という意味があるシリーズです。非常に実力のあるアーティストしか出演することができないシリーズで、98年以来メディアやファンから常に注目を集めています。今回は成田達輝さんが札幌のご出身ということで、東京オペラシティと札幌のキタラの2公演に出演されます。まず、出演者の選定をどのように行っているか簡単に伺えますか。

 

澤橋 それでは私のほうから。このシリーズでは、将来B→Cに出演したらいいと思う演奏家を常時140~150名リストアップしています。それを毎年、翌々年度の候補者を30名程度に絞って、そのノミネートした方たちにレポートと音源の提出をお願いしています。その選考資料を元に選考委員会で諸先生方が議論して10名が決定します。

 

多田 なるほど。成田さんの出演が決まった決め手のようなものはどのあたりでしたか。

 

澤橋 実は、成田さんに関しては、かなり以前からラブコールをしていました。

 

成田 はい、ノミネートはもう何度もしていただいていました。最初のときはまだ、う~ん、18~9かな、その頃は、まだ僕がバッハは演奏していてもコンテンポラリーに力を入れていなかったり、その逆だったりで、まだプログラミングができなかったのですが、今回は数度目のノミネートでやっと念願かなって出演できることになりました。

 

 

 

【プログラムについて】

多田 いまプログラムの話がでましたが、BCはバッハからコンテンポラリーへという意味ですが、今回のプログラムを拝見すると、かなり多彩な作曲家が並んでいます。エルンストなんかは19世紀ロマン派の作曲家ですね。曲目はすべて成田さんが決められたのですか?

 

成田 はい、そうです。

 

澤橋 プログラミングについては、どの辺りからお話しましょうか。僕がしゃべっていいのかな?

 

成田 全部しゃべってください(笑)

 

B→C バッハからコンテンポラリーへ 215 成田達輝(ヴァイオリン)プログラム
  • J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ短調 BWV1003
  • ファーニホウ:見えない色彩(1997〜98)
  • マロンドラ:2台のヴァイオリンのための新作(2019、成田達輝委嘱作品、世界初演)*
  • パガニーニ:《24のカプリス》op.1から第24番 イ短調
  • エルンスト:《ヴァイオリンのための多声的練習曲》から「夏の名残のバラにもとづく変奏曲」
  • フーバー:インタルシーミレ(2010)
  • ヴィヴァルディ:トリオ・ソナタ ヘ長調 RV70 *
  • ボールドウィン:ウト、レ、ミ、ファに基づいて *

    [共演]
    百留敬雄(ヴァイオリン)*

 

澤橋 今回のプログラムはヴァイオリン・リサイタルとして非常に面白い編成で、ヴァイオリン2挺の曲と独奏の無伴奏曲で組まれています。共演する百留さんは、HBCジュニアオーケストラ(札幌のジュニアオーケストラ)で一緒に弾いていた奏者です。

 

HBCジュニアオーケストラの指導風景(東京オペラシティ文化財団提供)

成田 僕がHBCジュニアに在籍していたときのコンマスはいま仙台フィルのコンマスの西本さんで、2ndのトップが百留さんでした。ヴァイオリンのお兄さんに教えてもらいました。百留さんも僕も札幌出身で、しかも百留さんはコンテンポラリー専門にやっておられますので、一緒にやれないかということになりました。演奏家としての僕の源流を辿るという背景もあるのです。

 

多田 なるほど、今回のプログラムは、まず共演者の点で、縁の深いプログラムになっているのですね。では、曲目そのものについて伺わせてください。このシリーズは、演奏家によってはバッハからいきなりコンテンポラリーへ飛ぶプログラムを組むこともあります。

 

澤橋 色々あっていいのです。バッハから時代順に辿ることもあれば、バッハ以前に遡ることもあります。

 

多田 プログラムに組まれているジョン・ボールドウィンは中世ですね。

 

澤橋 そうなんです。

 

成田 ボールドウィンで演奏会を締めます。

 

多田 中世やルネサンスの音楽にはかなり思い入れがおありなのでしょうか。

 

成田 う~ん、そうですね、なかなかそもそもヴァイオリンという楽器が、あの、

 

多田 今のような形ではなかったですね。

 

成田 はい、だから、ボールドウィンの曲もリコーダーのデュオの曲をヴァイオリン2台で演奏します。演奏会の締めに選んだのは理由があります。バッハの次2曲目に演奏するファーニホウの作品は、中世のオケゲムのミサから定旋律を引用していたり、あの、バスの部分ですね。コンテンポラリーの1曲目のファーニホウが中世とも関わっているので、最後にもう一度、中世の曲をもってきて、「新しい」って何なんだろう?という疑問符を付けて終わりたいという意図があります。もしかしたら、ボールドウィンが一番新しく、新鮮に聴こえるかもしれません。

 

多田 一般のお客さんにとっては新しく響くでしょうね。え?一番古いの?コンテンポラリーって何?と驚かれるかもしれないですね。なるほど、色々と仕組まれているプログラムですね。しかも、いわゆるコンテンポラリーの作品は、ファーニホウにしてもクラウス・フーバーにしても、ずらっと、コンテンポラリーの古典とも言うべき5060年前のトータル・セリーを使った作品が並んでいますね。お客さんはけっこう、こっちのほうを「古典的」と感じる可能性もあります。コンテンポラリーの作品からこうした現代音楽の古典のような作品を選んだ意図はどのあたりにありますか。

 

成田 まず、バッハとファーニホウの2つを置くことを決めました。この2つを太い柱にして周りに関連のある作品を配置しました。ファーニホウはヴァイオリンの技術を極限まで追求した作品です。委嘱したアーヴィン・アルディッティはなるべく難しい曲を書いてくれとファーニホウに依頼しました。総音列技法によってもの凄い音楽ができました。それと、パガニーニとエルンストをかけました。というのは、ヴァイオリンの技法の最先端だった作品だからです。それにバッハについては、ヴィヴァルディとボールドウィンをかけるという感じです。

 

多田 なるほど、すべて対比になっているのですね。では、バッハに関してはソナタの第2番ということですが、2楽章がフーガで、13楽章が通奏低音と旋律という形になっていて、バッハという作曲家の多様な面がよく表れた作品だと思います。この選曲についてはいかがですか?

 

成田 ええ、そうなんですよ。ソナタを演奏することは決めていたのですが、迷わず2番にしました。1番のように一つの様式でまとまっているよりも多様であることを重視しました。3番はフーガがあまりに長大なのでそれを初めにお客さんに聴いていただくのはどうかなと思いました。2番は、4楽章がフォルテとピアノで出たり入ったりと新しいことも試みています。そういう意味では、他の作曲家とかけるというコンセプトがあるので2番の選択でよかったと思っています。

(C)Marco Borggreve

 

 

 

【バッハについて】

多田 バッハという作曲家は、「音楽の父」だとか平均律は「旧約聖書」だとか、割とレッテルを貼られやすい作曲家だと思います。しかし、実際はとても多様な面を持っています。BCの手前でバッハそのものについてどのような印象をお持ちでしょうか。

 

成田 時代によってバッハの捉えられ方は常に変わり続けています。すでにアーノンクールたちが古楽という名前をつけて再興したわけですが、僕は正直あまり興味が持てませんでした。いわゆる、歴史的演奏法というものですね。なぜかというと、演奏家の個性に目が向いておらず、むしろ、偏っているなという印象を受けました。まるで、信じるものはついてこいというスタンスなので、グループでの活動が多いですよね。そうではなくて、「個」で発信するためにはどうするかと考えたときに、バッハの音楽が持つ多様性を古いものとは捉えずに、今の時代の感性で捉えるためにはどうしたらいいかというように考えています。ファーニホウを演奏した後にパガニーニを演奏したらパガニーニのカプリスがまったく違うように響きます。すべて個人的なものです。バッハにおいてもそれをするためには、ドグマ的になってほしくない。バッハは非常に多様性のある作曲家です。決してドグマ的にはならないよう柔軟に接することを大切にしています。

 

多田 アーノンクールがグループ的と言うのは面白いですね。彼が敷いたレールの上をいっせいにみんなが走ったような感覚が強いですね。

 

成田 アーノンクールが活動を開始したそのさなかに僕も生きていたらまた違った捉え方になったのでしょうけどね。いま振り返ると、ということでしょうか。

 

多田 運動の只中で見るのと、後から振り返るのとでは違いますよね。

 

成田 まったく違いますね。

 

多田 バッハに関しては、例えば、ブゾーニやメンゲルベルクの編曲のような演奏、それどころか、キース・ジャレットなどのジャズの奏者が演奏してもとても楽しめる面があります。その一方で、バッハというのは、当時の楽器が持っている音色、例えば、この調だとくぐもった響きしかしない楽器だから悲しい曲調のときにその楽器のその調を使おう、のように徹底したオリジナル志向の側面があります。かと思えば前述のジャズのアレンジのようにジャンルを問わない多様性の面も本質的に持っています。この点でもやはり多様な作曲家だと思います。当時の楽器じゃないと出せない響きを重視したにも関わらず、それを全部とっぱらっても、まったく問題なく音楽になる。しかもバッハ自身がけっこう自分の書いた曲を他の楽器にもどんどんアレンジしたりもしている。そんな面があります。実は、バッハってどんな作曲家ですかと聞かれると、私自身、非常に答えづらい嫌な質問なのです。

 

成田 たしかに。ヴァイオリンソナタの2・3番もクラブサンに編曲した楽譜が残っていますし。バスを分厚くしたりしてますね。おっしゃるように、ジャンルを問わない面があります。ですので、いま僕がバッハを演奏するなら、ソナタ全曲のようなプログラムよりも、バッハと他の作曲家を対比してそれぞれの価値を問いたい、そうすることで見えるようになる価値を模索したい、そんなところですね。

 

多田 なるほど、素晴らしい発想、試みですね。バッハの普遍性、これはどの演奏家とお話しても皆さんそう言うわけですが、他方で、バッハの音楽はプロテスタントの思想と分かちがたく結びついてもいます。この点でもやはり両義的です。頭が痛くなります。

 

成田 僕はクリスチャンじゃないので、ミサにも行かないのですが、宗教的な側面と純粋な作品の普遍的な価値が補い合い互いに高めあっていると思います。オルガンの曲なんてヴィルトゥオジティの追求の跡が見られますし。例えばピエール・ロラン・エマールが弾くメシアンの「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」なんて、もちろんメシアンの信仰があるわけですが、エマールの演奏は、それを凌駕するレベルに達していました。そういう意味でメシアンがクリスチャンかどうかはあまり気にならなかったですね。

 

多田 逆に言うと、本質的な宗教性の前では何教かは問題にならないということですね。

 

成田 はい、そういうことです。バッハも同じだと思います。同じように、ヴァイオリンという楽器もたまたま西洋出自の楽器だというだけで、僕は包括的な音楽がしたいのです。このB→Cのプログラムもバッハ以前にまで遡ったわけは、より包括的な音楽を志しているからなのです。そういう意味で今回はマロンドラにも新曲を委嘱しました。

(C)Marco Borggreve

 

 

 

【委嘱作品について】

多田 プログラムに組まれているマロンドラはどのような作曲家ですか。フーバーやファーニホウはトータル・セリーの厳密な書法の現代音楽ですが、また違うのですか?

 

成田 マロンドラもファーニホウの影響を受けていますがセリエルではないです。

 

多田 シュトゥックハウゼン的なセリーから出発した作曲家ではないのですね。

 

成田 ええ、ではないのです。むしろ、特殊奏法を駆使した音楽に特色があります。

 

多田 ソナタとかセリーとか型の新しさではなく、音色の新しさを追求する作曲家ということですか。

 

成田 はい、難しいですね(笑)。プリペアド・ヴァイオリンで書いた曲もあるし、第2ポジションに輪ゴムをひっかけて自然にハーモニクスが出るようにしておいて、それプラス通常の奏法で弾くような曲もあります。

 

多田 マロンドラは自分でもかなりヴァイオリンを弾く作曲家なのですね。

 

成田 と思います。そうでなくては書けない曲ばかりです。委嘱作もパガニーニの24のカプリスを題材に書いてくれていて、それがプログラムでパガニーニと対比されます。今月末には完成予定です(笑)。

 

多田 まだ譜面がないのですね()

(C)Marco Borggreve

 

 

 

【コンテンポラリーについて】

多田 マロンドラの作品について話題が進んだところで、BCC、コンテンポラリーについても伺わせてください。ファーニホウやフーバーの作品は、作曲された時期こそ90年代2000年代ですが、書法は先ほども申しましたように、5060年前にダルムシュタットで研究されたようなトータル・セリーに依拠しています。その意味でコンテンポラリーの古典と言えます。昨日プログラムを拝見して、これはザ・コンテンポラリー、あるいは、コンテンポラリーのクラシックだという印象を受けました。他方で、マロンドラはまた違う意味でコンテンポラリーと言えます。コンテンポラリーという言葉は、原義的にはconpempus、つまり時代を共にする、同時代的、現在進行的という意味の言葉です。しかし、音楽、あるいはその他の分野でも、近代の次の時期のシステムを指示する言葉でもあります。ファーニホウらの場合がそれに該当します。しかし、ファーニホウは、それだけではなく、コンピューターの打ち込みを使用し、例えば小数点第2位のテンポ指示があったり、リズムに徹底した比率を用いたり、まさに現在進行的なcontempus的な要素も併せ持っています。コンテンポラリーという言葉そのものを音楽に用いる際、その言葉をどのように捉えていますか。

 

成田 まずファーニホウについては、シャコンヌ風間奏曲という曲があるのですが、全然、譜面の印象が違うんです。和声的で、和音が多いんです。

 

多田 ファーニホウも作風が時期によって変化していますよね。いつ頃の作品ですか。

 

成田 86年ですね。

 

多田 2期目くらいにあたる時期ですね。

 

公開レッスンの様子(東京オペラシティ文化財団提供)

成田 そうです。今回プログラムに入れた「見えない色彩」が90年代です。先ほど公開レッスンでも取り上げました。芸大を受験する学生が挑戦してくれました。こうした作品を弾こうとする学生は滅多にいません。もっと興味を持ってもらいたいですね。いまファーニホウを弾いた学生も、弾いたことのある曲で一番新しい曲はイザイだと言っていました。

 

多田 音楽、いやそれだけではなく人間の営みにおいてコンテンポラールとは何かを考えなくてはいけないですね。コンテンポラリーそのものについて、どのようなお考えをお持ちですか。

 

成田 多田さんはどうお考えですか。

 

多田 まず第一にダルムシュタット的なセリー、そして、第二にそこから出発したブーレーズが指揮者になり昔の作品を巨匠演奏家が20世紀に取り上げる、この世界観も終わりかけていますがあれもコンテンポラリーだと思います。そして、アングロサクソン系の音楽と境界がなくなっていってポップカルチャー化した現象も第三にそう言えるでしょうね。1954年にフルトヴェングラーが死んでいますが、同じ年にプレスリーがデビューしていたりとか。バッハに劣らず、コンテンポラリーも無限に解釈可能です。その意味でBCという形式はそれを見る人によって無限の現われ方をすると思います。

 

成田 より演奏家の主観が問われるわけですね。コンテンポラリーについては、それがどこから来ているのかを考えなくてはいけない。思想や何かがあって、それが絵になったり彫刻になったりするわけです。そのなかで音楽は最も蒸留を重ねてこなくてはできないものだと思います。思想体系のようなものに当てはめると一番最後にくる。それから考えると、同時代性を見出すのは、演奏家自身でしかなくて、そこで何を見せたいかと言うことによるわけです。酒井健治さんの曲を最近演奏しましたが、酒井さんの作品は「クラシックを異化する」という発想のもとに書かれています。ブーレーズはドイツ音楽の構築によっていますが、しかし健治さんの作品は、ドイツ音楽の堅牢な構造から、フランス音楽の流動感を活かして、更に日本のヨナ抜き音階など日本古来のモチーフを挿入したりと工夫を凝らしていると思います。音楽における同時代性についてどうお考えですか?

 

多田 音楽は、いつの時代でも過去の作曲家がやっていない新しい型を生みだそうとして、そうして発展してきました。セリーまでは、その「新しさ」が同時代性だったわけです。ですが、セリー、それも、新ウィーン学派的ではなく、シュトゥックハウゼン的なトータル・セリーで型の生産は尽きてしまいました。その意味では新しい型を生みだすことがコンテンポラリーだった時代はとうに終わってしまったと言い得ます。それでは現在における同時代性はどうか。時代は逆になりますが、例えばストラヴィンスキーなんかがやったのは昔の作曲家の型のパロディーで、はっきり言ってしまえばパクリですよね。あれは、いま現在の私たちが持ちうる同時代性の表現だと思います。パッチワークと言うのでしょうか。つまり、型の生産は極限までやり尽くされてしまったので、その型の組み合わせの方向に行くしかない。ストラヴィンスキーの場合は進歩への懐疑など時代精神的な制約があってそうなった面も強いわけですが、あれは、音楽における現在進行形のコンテンポラリーの典型だと考えています。酒井さんの作品もお話を伺ったかぎりですが高度なパッチワークと言えそうですね。

 

(C)Marco Borggreve

成田 新しい型を創ることが本質的に不可能になっているのはまったくその通りだと思います。だから流派とか関係なく作曲家個人がどのような視点で書くかというそれだけが大事だと思います。演奏のほうでも、演奏家のプログラムを演奏家の個性という風に考えると、今の時代は演奏家一人一人が自由に発信できる環境が整ってきたのではないか、と思います。この環境の延長上で、演奏家がプログラミングにおいてどれだけ説得力をもった新しさを提供できるか、に尽きると思います。例えばバッハが歴史の経過のなかでどのように演奏されるようになるのか、その変遷に常に注目してお客さんに見ていただかなくてはいけないですね。もうすでにBからCの包括的な演奏会はたくさんありますし、そうすると、今度は演奏家自身の個性に目は移ってゆくでしょうし、これは歴史で繰り返されてきたことでもありますね。そのなかの一人、みたいな感じですかね。その意味では、新曲の委嘱はどんどんやっていきたいですね。

 

多田 どういった新しい作品に意欲がありますか。

 

成田 いまパリに住んでいる坂田直樹さんという方がいます。武満徹作曲賞、尾高賞、芥川也寸志サントリー作曲賞の3賞を総なめにした素晴らしい作曲家なのですが、彼に、アイヌの伝統のムックリとヴァイオリンのデュオを書いてもらっています。自分の視点では、僕は北海道が地元ですから、その伝統と西洋の伝統が出会うと何が起きるか、とか、関心がありますね。

 

多田 なるほど。流派などではなく個人の表現なんだという成田さんがはじめからお話されている音楽の理解に収斂してくる感覚がありますね。ムックリに着目したきっかけは?

 

 

 

【北海道での活動への意欲】

アイヌ民族に伝わる竹製の楽器、ムックリ

成田 実は、札幌で現代音楽の音楽祭をやりたいんです。先週、静岡のAOI音楽館にアルディッティを聴きにいったときにアルディッティの弟子の三島出身の牧野純也さんに出会いました。彼が三島コンテンポラリーデイズという音楽祭を立ち上げられて、一人で全部、スポンサーもつけてやっています。彼の姿勢がすごく好きです。プログラムもドビュッシーとシャリノーだとか、ヴィヴァルディとハルトマンだとか、ケージのフリーマンエチュードがオープニングでした。あのような音楽祭を北海道の素地で表現できたらと思っています。私も厚別の小学校でムックリを体験したりしましたし。ムックリは、北海道開拓の村に課外活動で色んな小学校が訪れていますがそこでも体験できます。アイヌ文化資料館でもそうした体験コーナーがありますね。

 

多田 ぜひ応援したいです。というのは、いま現在、札幌のお客さんは「現代音楽」と名前を付けちゃうともう来ないのです。かなり偏見があります。

 

成田 そう、だから「現代音楽」じゃないもっといいネーミングがあるといいですね。それと昨日友達から聞いたのですが、あまりチケット料金を払って音楽を聴く文化がないと聞きました。

 

多田 ほんとそうです()。銀行主催の無料招待とかだと満席になります。価値ある活動に応援の意味を込めて対価を払うという感覚はないです。これは、良し悪しというよりも、あくまでも地域のカルチャーなんでしょうね。文化的な催しは自治体が税金で開催するもので、地域の人はあくまで無料で参加する、というような。街の規模が小さくなるほどその感覚は強くなると思います。

 

成田 そうなんですってね。なので、僕もまずは北海道開拓の村などで入場無料でムックリの曲を演奏したいとか今考えています。札幌には、せっかくイサムノグチの素晴らしい彫刻ですとか、安田侃の作品なんかがあるのに、ああ、モエレ沼公園のことですが、ガラスのピラミッドもありますね。どうしてあそこでやらないのかと思っています。現代音楽というネーミングもやめて、北海道の音楽祭をあそこでやりたいですね。なんか代わりにいいネーミングないでしょうかね。なぜ、いまドヴォルザークやチャイコフスキーをまだ聴くのか、それを現代曲を通して知ってもらいたいですね。

 

多田 フルトヴェングラーが生きていた時代は、みんなが19世紀の空気を吸っていたわけで19世紀の作品を演奏するのは自然なことでしたが、もうそうした世代もいないんですよね。そうすると、18世紀のなかばから19世紀末までの150年間に作られた曲だけを演奏するということが、もうそろそろ、何か偏った振る舞いなのではないかと、みんなが気づき始めてもいい時期ですよね。一般のお客さんがそこから脱してゆくよう啓蒙する活動は必要だと思います。ぜひ応援したいですね。

 

東京オペラシティ文化財団提供

成田 昨日HBCジュニアオーケストラの指導にいったんですが、そこでこのファーニホウを弾いたんです。そうしたら子供たちが面白い!って沸いたんです。たぶん広め方と、あとできるだけ若い世代に知らせておくことが大事です。大人になってそれが12音技法だとかいう知識を勉強するよりも先に、できるだけ小さい子たちに弾いて聴かせることで根本から改革したいです。そうすると10年後20年後の音楽学校の学生たちも変わってくるはずです。だから現代音楽、という言葉は使いたくないのですが、そういう音楽の小学校公演もやりたいですし。言葉で説明しちゃうと価値は下がるので、その手前のなるべく幼い子供に聴いてもらいたいです。

 

多田 バッハとコンテンポラリー、BCというこのコンサートのコンセプトを通して成田さんの今後の活動の野心までお話くださいました。プログラムの意図もかなり伝わったのではないかと思います。まだまだ話題は尽きないところですが、まずは105Kitara小ホールで開催されるBCの公演のご成功をお祈りいたします。それから北海道での音楽祭、お子さん向けの啓蒙活動もぜひ実現させてほしいですね。今日は本当にありがとうございました。

 

成田 こちらこそ、ありがとうございました。

 

左:澤橋氏、中央:成田氏、右:多田 @奥井理ギャラリー

(2019年7月15日 札幌市 奥井理ギャラリーにて)

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