【STJ第7号掲載】札響ダイジェスト&札響Pickup!(執筆:多田圭介)
事務局の滝田です。さっぽろ劇場ジャーナルでは、川瀬賢太郎さんの札響正指揮者就任を記念して、これまで本紙で制作した川瀬さんがご出演された演奏会の記事を3回連続でご紹介してきました。今回はその最終回です。22年3月に発行した紙のSTJ第7号に掲載した記事をお届けします。
第一弾、第二弾でご紹介した記事は下記のリンクからお読みいただけます。併せてどうぞ!
第一弾 札響【名曲シリーズ】音のスケッチ・よろこびの秋(2020年9月12日)
第二弾 東京二期会 「魔笛」レビュー(2021年11月6日)
【STJ第7号掲載】札響ダイジェスト
本紙第6号の発行(昨年6月)から間隔が空いてしまいその間の札響主催公演もかなり溜まってしまった。いつもはこのダイジェストでは全主催公演に言及するようにしているのだが数が多すぎるので今回は特に印象に残った5公演に絞ってお伝えしたい。
まずは昨年の6月定期。Pf.藤田真央、Cond.川瀬賢太郎でシューマンのピアノ協奏曲、後半はマーラーの交響曲第4番。現代の新しい感性を代表するような2人の共演で新時代を実感させてくれた。共感の輪が優しく広がるような藤田のピアニズムは極めて現代的だ。決して声を荒げず傷ついた心を優しくケアするような彼の音楽は今もっとも時代にフィットした演奏家だと言える。ジグムント・バウマンが言うように現代には「非対照性の嫌悪」がある。かつてであれば未熟な子供を成熟した大人が導くというモデルは機能していたが、今は親や教師がその非対照性を悪用して身勝手な欲望を遂げようとする危険性のほうが重視されている。関係の非対照性を徹底的に均し、共感の輪を横に広げるような藤田の音楽はそうした時代にマッチしている。だが、個や主体というものは捨てようとすれば抵抗を発生させる厄介な遺産でもある。文芸というプロジェクトはむしろこの反時代的な抵抗にこそ宿ると筆者は考えるが藤田はどう答えるだろうか。
後半のマーラーを指揮した川瀬の、絡まった糸を丁寧に解きほぐすような緻密な音楽性は本当に卓越している。こうした手腕は声部が錯綜するマーラーで最大限に生きる。かつてのバーンスタインのように絡まったままウォリャー!と聴かせるマーラーの演奏はもう完全に時代遅れとなった。こうしてこそマーラーの色彩は生きるし、瞬間ごとに感情が変化するような音楽も息づく。川瀬の音楽性はよい意味でオーディオ的なところがあり、どんなに声部が増えても分離がよく、いつも見通しがよい。川瀬は、20世紀の呪縛に囚われている老人からは不評を買うこともあるようだが、音楽界を先へ進めてくれるような彼の期待感は若手随一であろう。札響との相性もかなりよい。今年4月の正指揮者就任を心から歓びたい。
9月定期のバーメルトに関してはWeb版で本紙レギュラーの平岡と筆者とのダブルレビューでお届けした。札響の歴史を、また日本のブルックナー演奏史を大きく前へ進めた2日間となった。ぜひWeb版をご参照いただきたい。
10月定期は井上道義の登場。お得意のプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」から井上セレクションを聴かせてくれた。井上の音楽は安易な知的分節化を拒むようなところがあり、いつも音楽に身を投げ出している。聴衆も安全な距離を保って「聴く」のではなく、井上=プロコフィエフの世界と「出会っている」ような錯覚を抱くことになる。機能性重視の時代にあってこうした彼の特徴は稀有だと言える。折口信夫の『死者の書』は、その特異な文体によって知られている。文学研究の松浦寿輝は同書冒頭の「した した した」という響きに「絶対的な近さ」の体験を認めている。井上の音楽にもこうした「直接性」があるのだ。「ロメオとジュリエット」のタイボルトの死の直後の15連打など、ただ同じ打撃が反復されているだけなのに、繰り返されるたびに”はらわた”がぶちまけられるような感覚があった。棒の分かりにくさやその強烈なキャラクターゆえに、日本のオーケストラの楽員からは不評を買うことも多い指揮者だが、実力と個性は無類なものがある。彼が纏っているノスタルジックなオーラと根っからの舞台人気質も魅力だ。また札響を振ってほしい。
11月は名曲コンサートにバーメルトが登場した。ワルツのみを集めた珍しいプログラム。バーメルトは演奏前に客席に「さあ、一緒に踊りましょう」と語りかけたが、いざ演奏が始まってみると、とても踊ることなどできない。身動き一つせずに全神経を音に集中させられるような演奏芸術の極致のようなワルツが展開された。シベリウスの「悲しきワルツ」の、体温をまったく感じない死者が静かに踊っているような静謐さは忘れ難い。バーメルトという人は無意識の天才のようなところがあり、発せられる言葉が彼の芸術を常に裏切る。先の「踊りましょう」もそうだが、プログラム最後のラヴェルのラ・ヴァルスでもそうだった。同曲最後、熱狂のカオスが訪れる箇所を、バーメルトは透き通ったガラスの構造体のような響きで鳴らした。もの凄い鳴りっぷりだったが、身体的な高揚はゼロ。まったく興奮させない。カオスの真逆。にもかかわらず、演奏を終えたバーメルトは「演奏会の最後がカオスでは忍びないので最後にウィンナワルツを演奏します」とニヒルに笑いながら話した。「だからカオスになってないって」。心のなかでそう呟かされた。本当に一筋縄ではいかない音楽家だ。視点を絶えずズラし、攪拌するようなバーメルトという音楽家が気になって仕方がない。ゾッとするような美感にもいつも魅了される。透明になればなるほど不可視の奥行きを現出させる。バーメルトの音楽に接するといつもフラハティの映画を思い出させられる。妻のフランシス・フラハティは彼の映画について「時間を超えた時間」を見出し「それは何かを主張するのではなく祀っている」と述べている。バーメルトの音楽にもこうした未知の空間と神秘の時間を開示するところがあるように思われる。彼の音楽は聴く前にある種の覚悟が必要とするが、いつも遠くへ連れて行ってくれる。
次は小樽で毎年開催されている札響ニューイヤーコンサートin小樽。ベテラン梅田俊明のツボを抑えた聴かせ上手な手腕が光った。春になって新しい生命が次々に芽吹いてくるようなフレッシュな音楽でニューイヤーコンサートに相応しい。梅田が瞬間ごとにオーケストラに命を吹き込んでいるのがよく分かった。サンサーンスの序奏とロンド・カプリチオーソで独奏を務めたVn.成田達輝も持ち前の洗練された都会的なセンスを存分に発揮した。小樽市民会館はかなり老朽化しているため建替えが予定されているそうだが、このホールの明晰な音響は代え難い。取壊しは惜しい。近年のジャブジャブ響くホールに慣れているとデッドだと感じる人もいるかもしれないが、このホールは舞台上で本当に明晰かつ美しく和音が響き、それがそのまま客席に飛んでくる。「よいホール」の基準もそろそろ一周回って原点回帰する時期なのではないかと思わされる。
最後は2月の新・定期htaruシリーズ。札響の首席Hr.奏者・山田圭祐がモーツァルトのホルン協奏曲第4番を披露した。山田は普段の定期でも見事な安定感を示しているが独奏も素晴らしかった。正確なイントネーションと、音楽をよく理解した音色のバリエーション、いずれもソリスト級であった。また、山田は終楽章の小カデンツァに、当日のプログラム後半のベートーヴェンの「英雄」の第1主題を忍び込ませ、会場の笑みを誘った(モーツァルトのHr.協奏曲第4番と英雄は同じEs-dur)。一昨年は名曲コンサートでTp.の鶴田も協奏曲を披露しておりそのときも鶴田の柔らかく明るい音楽に感銘を受けた。楽員の独奏による協奏曲は今後もどんどん企画してほしい。ファンも喜ぶと思われる。指揮は松本宗利音。松本の指揮は、前半の協奏曲では主題が変わってもオケの音色に変化がなく、丁寧ではあるのだが丁寧過ぎるところばかり目についてしまった。後半の英雄では、前半とは逆で勢いに任せたような演奏になってしまい、音楽がなかなか生きてこないうらみがある。松本は3月で任期を終えた。経験を積んで札響の指揮台に戻ってくる日を楽しみに待ちたい。
ダイジェストに続いて”札響Pick up”では、バーメルトの代役でスダーンが登場した1月定期に注目したい。
【STJ第7号掲載】札響Pickup!
出演できなくなったバーメルトの代役でユベール・スダーンが指揮台に上った(当日指揮台は置いていなかったが)。代役として余りある仕事ぶりで、終始、目頭が熱くなりっぱなしだった。もちろん、ごく常識的な音楽をするスダーンにバーメルトのような異世界を開く力はないのだが、それでも自己の本分を守りつつその範疇で最大の成果を上げた素晴らしい仕事だった。筆者は、スダーンが東響のポストにあるときちょうど学生で東京にいたので彼の演奏は数え切れないくらい聴いている。それらと比較しても最上レベルの出来だった。スダーンの仕事で当日の演奏に匹敵するのは東響とのシューベルトの第2番、ブルックナーの第6番が思い出される程度である。スダーンは札響にも定期的に出演している。前回はサンサーンスのオルガン付き、その前はフランクの交響曲だったと記憶している。その2回は振るわなかったので今回も実はあまり期待していなかったのだが、よい意味で大きく裏切られることになった。1週間後の東京公演でも、首都圏の信頼できる聴き手たちが、声を揃えて東響との仕事を凌ぐと言っており、そうだろうと思った。
プログラム全体を通して張り詰めた空気が一貫しており、スダーンと札響楽員の気合いは並々ならぬものがあった。しかも、それが力みや勇み足につながることが一切ない。スダーン、完熟の境地といったところだった。札響の互いに周りをよく聴き合ったアンサンブルも何か「完成」という言葉を思わせるところがある。本紙を創刊して6月で4年になるがその間にも札響の演奏レベルは目覚ましい向上を続けている。そのことをまざまざと感じさせられた。
スダーンは本質的に弦中心に音楽を組み立てる指揮者である。当日もそうだったのだが、普段の彼から垣間見える「立派な音してるから文句ないだろ」というような踏み込みの浅さは最後まで感じなかった。1曲目はベルリオーズの「ロメオとジュリエット」から第3部。中低弦に頻出する愛の主題の瑞々しさが際立つ。情熱的なのだが、どれほど高揚しても爽やかさがある。真夏の運動後に冷えた水がスーッと身体に染みわたっていくような感触がある。弦が丁寧に歌い込まれ決して濁ることがない。10代の淡い恋愛のような爽やかさといえば伝わるだろうか。ベルリオーズの肥大した自意識はまったく影を潜めている。だが、つまらないのではない。スダーンという音楽家の資質からしてこれで最良の成果だと思えた。
2曲目は伊福部の「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」。独奏は札幌出身の山根一仁。山根のヴァイオリンを聴くのは久しぶりだが本当に上手くなった。かつての弾き飛ばすようなところがまったくなくなり大人の音楽を奏でるようになった。山根のヴァイオリンが土臭く、大地が唸るようであるのに対し、スダーンの指揮はその対極。張り詰めた緊迫感を損なうことなく純粋で透明な響きを一貫させる。伊福部は日本人では決してこうは振らないだろう。伊福部の音楽が持つ前近代的で呪術的な本質を山根が奏で、スダーンがそれを脱魔術化、近代化しようとする。両者が両極に引き合い拮抗する。最初の1音からピン!と張ったような空気が発せられ、会場にもの凄い地場が生じたのを感じた。
山根にとってのスダーンと、スダーンにとっての山根はおそらく互いに解き難いアポリアだったのではないか。だがその拮抗が停滞を生むのではなく、アポリアが生み出す表現の変異によって音楽は豊饒化した。近代化と前近代ということでいえば、例えば漱石にとって「女」はアポリアであり続けたが、それが彼の文学を停滞させたのではなく、「妹」の両義性や独立性を導入させ、アポリアを逆用しつつ彼の文学表現を変異させた。山根とスダーンの衝突はそれを思い出させる。山根が大地に引き摺り込もうとすればスダーンが天上へ引き上げようとする。引き裂かれつつ場が変異する。この特異な空間性で何か分からない感情が湧きあがり走りだしたくなるような興奮を覚えた(もちろん大人しく座っていたが)。
宗教社会学者のピーター・バーガーはウェーバーを引き合いに出しつつ、西洋における脱魔術化(近代化)のプロセスは実は古代のユダヤ教にすでにあり、それが近世のプロテスタンティズムに再来したと述べているが、日本は維新期にそのような分厚い伝統なしに一気に近代を呼び込まなくてはならなかった。その不可能性と原始的な身体の抵抗運動は日本の近代音楽受容の歴史でもあった。伊福部の音楽を媒介に、21世紀のいまここにその運動が巻き起こす強烈な地場が生まれたように思われた。細かい譜例などを挙げる気がまったくしない。音楽の原初的な躍動ここに極まる感があった。
後半はシューマンの交響曲第2番。札響でこの作品は半年前にPMFで大植英二が指揮したばかりだ。そのときは流れが鈍く停滞し、気が滅入るような演奏だったが、スダーンは真逆。全曲を爽快に駆け抜ける。それでいて雑なところがまったくない。世界を力強く肯定する賛歌のような第2だった。
第1楽章からバロックティンパニが大活躍した。再現部での肌に粟を生じさせるようなクレッシェンド等、ここぞという箇所で効きまくっている。頻出するスフォルツァンドでの一面的ではない響きの構成も見事だった。快速を維持しつつコーダのCon fuocoでさらに加速させると場内を興奮の坩堝に叩きこんだ。第1楽章では339小節に出てくるTpの5度上昇モチーフが勝利の雄叫びのように伸びやかだったことも印象に残った。また、Tpのこの5度上昇は、第2楽章の384小節、終楽章の423小節にも出てきており、スダーンはその度にモチーフを高らかに歌わせており、このモチーフの重要さに初めて気づかされた。そもそもこれが何度も出てきていることもこのときに気づいた。駆け抜けるようだった第2楽章では、第1トリオの弦の伸びやかな歌に魅了されたし、第1トリオからスケルツォに戻る際に、指定よりかなり前からリタルダンドをかけるなど芝居っけも見せた(rit.の指定は楽譜では155小節だが152小節からかかっていた)。第2トリオも素晴らしい。オーボエ、ヴィオラ、チェロとリレーされる主題が心から歌っているのを感じる。停滞しがちな第3楽章も流れがいい。オーボエの主題に愛らしく装飾が加えられたり(古楽ではたまにある)、軽やかな響きの妙を堪能させる。終楽章も勝利の賛歌。一気に駆け抜けながらも鮮やかなバランスの対比が目覚ましい効果を上げる。ただ欲を言えば、コーダの567小節のエコーはもっと響きを開放しダメ押ししてほしかった(E.インバルのように)が、これが筆者の個人的な好みなのでどうしようもない。存分に楽しませてくれた。
もちろん、欲を言えばキリはない。作品が持つ「影」や「含み」は感じられないし、やや一面的で単純な音楽になっていたのは事実だ。だが、スダーンはそういう音楽家なのだ。ないものねだりをするのではなく、彼の資質での最上の成果を堪能できたことを喜びたい。元々職人気質の指揮者だがその資質が華を咲かせつつあるのを感じたコンサートだった。札響にもまた来てほしい。
(多田圭介)
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