札幌劇場ジャーナル

ミハイル・プレトニョフ指揮、ロシア・ナショナル管弦楽団

2018年6月17日 札幌コンサートホール Kitara 大ホール

 ミハイル・プレトニョフ指揮、ロシア・ナショナル管弦楽団の演奏会を聴いた。かつて自らロシア・ナショナル管を組織した頃のプレトニョフの音楽は颯爽としていた。それが10年ほど前から重く陰鬱になりつつあった。さらに時計の針は進み、今回は懐古的とも言える表情を聴かせた。

 一曲目はグラズノフ作曲の組曲「中世」より前奏曲。低音の三和音の分厚い響きの上に、各セクションが錯綜して動く。錯綜は徐々に濾過され再び冒頭と同じ6拍子に戻る頃には、誇り高い騎士の凱歌のような音楽が響く。音色は艶消しのようであくまで渋い。

 二曲目は反田恭平を迎えたチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番。冒頭のホルンの有名な動機に、なんとテヌートがかけられた。その後もゆったりと辺りを見回すように進む。しかし、反田のピアノはそれに抗するかのように情熱的に躍動する。指揮者とソリストの間で音楽の感じ方に齟齬を感じたが、ユニークで聴き応えがあった。第一主題の再現では、3拍目、2拍目にずれて記されたスフォルツァンドが天を切り裂くように鋭い。楽譜通りなのだが初めて聴く表情に感じた。第2楽章は反田のスコアの読みが緻密だ。弦楽器のピッツィカートに乗って奏される主題A。この主題は、はじめは”As-Es-F-As”だが2回目は”As-Es-B-As”になる。ここは、同じような表情で演奏されるか、ごく稀に”B”に統一されることもある。しかし、反田はこれをフルートによるdolcissimoからピアノによるespress.への音楽の展開として有意味に捉えてみせた。素晴らしい解釈だ。テンポが速くなる中間部に入ると、反田のピアノはデリケートな情感を湛えながら変幻自在に表情を変化させる。反田のピアノはまるでかつてのプレトニョフのようだ。時を超えて名音楽家が二重写しになったような感触に襲われた。終楽章の機関銃のような反田の弾きっぷりは会場の熱狂を呼んだ。ソリストのアンコールはトルコ行進曲。同じ主題が出てくるたびに無限の表情の変化を聴かせる。まるで宝石職人が様々な角度から石を愛でているようだ。反田のピアノはヴィルトゥオジティに傾斜する傾向が強かったがこのところデリケートな側面が目立つようになってきたようだ。

 後半はストラヴィンスキーの「火の鳥」。珍しい1945年版が用いられた。ここでもプレトニョフの音楽は深沈としている。作品の革新性よりも、随所で引用されるロシア民謡の素朴さが際立つ。まるで名もない誰かがふと口ずさんだ旋律のようだ。印象的だったのは終曲の入り方。通常は前曲から続く弦のトレモロが静かになりホルンの主題が出る。しかし、プレトニョフは終曲へ入るとトレモロを強くした。トレモロは、鮮明なのでもなく濁っているのでもなく、まるでベールのようなのだ。その向こうに歓喜がほのかに見えてくる。魔術的な響きだ。この45年版は、エンディングのマエストーソの音価が短く通常はドライな響きになる。だが、ここでも響きは温かい。音響が増大するほどに内面世界へ沈潜してゆくのだ。祈りの音楽のようだ。今の指揮者の心境の反映なのだろう。プレトニョフの音楽が新たなステージに入っていることを感じさせた。(多田 圭介)

 

※北海道新聞 7月2日夕刊「音楽会」の記事とは別バージョンです。

 

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