札幌劇場ジャーナル

PMFオーケストラ演奏会 プログラムA

7月15日(日) 札幌コンサートホールKitara(大ホール)

 PMFオーケストラ演奏会プログラムAを聴いた。プログラムは前半がマーラーの花の章、リュッケルト歌曲集、休憩をはさみ、バーンスタインの交響曲第1番「エレミア」、チャイコフスキーの交響曲第4番。後半だけで1時間半に及ぶ盛りだくさんなプログラム。前半とエレミアがアカデミー生のオーケストラ。チャイコフスキーにはPMFヨーロッパの講師が加わった。指揮はジョン・アクセルロッド、リュッケルト歌曲集とエレミアの第3楽章のソリストはイスラエル人のリナート・シャハム。「エレミア」にもっとも聴き応えがあった。それを中心に述べる。

  花の章とリュッケルト歌曲集は、マーラーがスコアに書きこんだ細かい指示をごまかさずに丁寧に追った演奏だった。ただ、それを重視した結果、流れが停滞したり和音の移り変わりがぎこちなくなったりした。リュッケルト歌曲集ではソリストのシャハムがなぜか声が出ない。シャハムの声が聴こえないので「真夜中に」では指揮者が金管を抑えた。苦労しているようだった。しかし、シャハムはエレミアでは別人のように雄弁になった。不思議なものだ。

  バーンスタインの交響曲第1番「エレミア」は立派な演奏だった。細部まで練習が行き届いており、アカデミー生のオケも音に自信が出てきた。音楽に対する共感も随所で感じられた。冒頭のティンパニと弦による八分打音には儀式的な畏怖が感じられる。小結尾に登場するTp.による予言の主題が天からの警告のように響く。4/5拍子に戻ったあと、諸動機が複雑に絡み合いながら再度この主題が想起される。動機の組み合わせが建築物的に明瞭だ。しかも、それでいながらうねるようにトゥッティに到達する。第一楽章は短い。それがもったいなく感じられた。

  第2楽章は、エレミアの予言に耳を貸さない異教徒たちの乱舞。めまぐるしく拍子が変化する上に主題の音程関係が短7・増4・減5・増2という不安定さだ。しかもすべての音程に下向きの叩きつけるような圧力がかかっている。オケは全力で暴力性を表現した。Hr.のフォルテ4つの指示は絶叫するようだった。

 第3楽章は作品の核心、「哀歌」。シャハムが第2楽章の結尾部で一階の客席を歩き登場した。第一節、シャハムが嘆きをぶちまけるようだ。前半のリュッケルトで声がでなかったのはなんだったのか。アクセルロッドのテンポが速いのが功を奏す。第一節の終わり、「彼女は寡婦に、奴になってしまったのか」は嘆きというより怒りのようだ。主音のFisで第一節が終わると、突如VnD-F-Aの和音がFisと対斜でぶつかる。ここはもっと鋭さが欲しかった。

  次節に入ると嘆きよりも悲嘆の感情が滲み出てくる。「流浪」や「定住」といった重要な歌詞にHrのゲシュトップが重ねられる。Hrには突き刺さるような音色を期待したかったが、少々楽譜をなぞるようなゲシュトップだった。限られたリハーサル時間でこのゲシュトップの重要性を共有するに至らなかったのかもしれない。

 エレミア書第18節の引用に移るとフルートの6度下降動機が出てくる。「哀しみの6度」だ。ここでバーンスタインはスコアの声楽パートに「リズムも色彩もなく」と指示している。諦めつつただ涙が流れるようなシャハムの表現が心を打つ。クライマックスでは再び力を取り戻すが、「主よ、あなたのもとへ帰らせてください」で消え入るように力尽きる。その後の「哀しみの6度」に基づく弦楽四重奏が素晴らしい。アカデミー生のみによる演奏だが心からの共感が感じられた。静かに泣いているような音だった。エンディングの和音が意味深い。苦悩に仄かな希望が入り混じったような音楽だ。

  この和音はバーンスタインが傾倒していたマーラーが「大地の歌」の最終和音で用いた付加6度和音。付加6度和音とは、ドミソの和音の上に根音から6度のラが重ねられた和音だ。長三和音のドミソに短三和音のラドミが重なる。諦めに救いが混ざったような複雑で神秘的な響きがする。バーンスタインはこの完全5度上のソシレにミを重ね、さらにホ短調のミソシを低音部に、ト長調のソシレを高音域に分けた。さらに、その両者を媒介する中間にA音を置いた。これはマーラーの超克だ。しかも、A音は第二楽章の異教徒の動機の主音だ。短調の「苦悩と諦め」、それと長調の「希望」を媒介する音がなぜ異教のAなのか。

 バーンスタインは自著でこの終結について「解決ではない」、「慰めではあっても完全な平和ではない」と述べている。異教との戦いは終わらないこと、平和は訪れないこと、平和が望まれることもまた、異教の媒介によって真摯な思考に高められること、ホロコーストのさなかで書かれたバーンスタインの処女作にはそんな思いが込められているのであろうか。私たちがバーンスタインの意志を引き継ぐというのであれば、空虚なイデオロギーとして「平和」や「感動」という言葉を安易に振りかざし政治利用するのではなく、一人一人がバーンスタインの訴えに真摯に耳を傾けることが求められるのではないか。そんなことを考えさせられた演奏会だった。バーンスタイン生誕100周年というこの機会でなければ交響曲第一番「エレミア」を聴くことはできなかっただろう。(多田 圭介)

 

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