<CrossReview>札幌交響楽団 第640回定期演奏会(執筆:多田圭介)
札幌交響楽団 第640回定期(60周年記念演奏会)の記事を、本紙編集長の多田とレギュラー執筆者の平岡によるクロスレビューでお届けします。先攻は多田から。平岡の記事はこちらからどうぞ。(事務局)
2021年9月11日(土) 札幌コンサートホールKitara
札響の首席指揮者であるマティアス・バーメルトが1年7ヶ月ぶりに来日を果たし札響を指揮した。筆者は、バーメルトがまだ札響のポストに就く前の2016年に、氏が札響に客演した際の「マ・メール・ロワ」と「展覧会の絵」が忘れられないでいる。そのときバーメルトは、聴き慣れた札響から、それまでに聴いたことがないような美感を引き出した。ゾッとするような高級感だった。今までに聴いた札響のなかで突出した音楽であり、2018年にバーメルトが首席指揮者に就任して以降もそれを超えないもどかしさがあった。だが、この2021年9月の定期で、バーメルトと札響はついにそれを上回ってきた。というより、この日Kitaraで鳴り響いたブルックナーの交響曲第7番は、筆者が今までに聴いた札響の演奏は言うまでもなく、筆者の人生においても間違いなくトップレベルに数えられる至芸であったことは間違いない。ブルックナーの第7番のライブにかぎっても、バーメルトと札響は、G.ヴァント、K.ザンデルリンク、S.スクロヴァチェフスキ、E.インバルなど筆者の記憶に深く刻みつけられている数々の「第7」に肩を並べてきた。目の前で繰り広げられている音楽が、現実であるのか分からなくなるような、錯覚のような時間が過ぎていった。日常生活の記憶が染み込んだ自宅近くの空間でこんなことが起こるとは予想もしていなかった。札響楽員の気合いももの凄かった。久々に来日できた自分たちのシェフと最高の仕事をするんだという気概が漲っていた。色んな偶然が相乗し合い、よい方向に働いた結果なのだと思う。
果たして「感動」とはどのような現象であるのか。このような最高の成果を目の当たりにすると根本的に反省を強いられる。「元気が出る」、「元気をもらいました」、「泣ける」、「心が温かくなる」。感動を表現する言葉はたくさんある。だが、そのどれも、真の感動には遠い。前提として、音楽を聴いて「元気をもらいました」と言うような輩は栄養ドリンクでも飲んでいればいい。人はそれで(フィジカルには)十分に元気になる。人が芸術に触れるのは、究極的には、元気になるためではない。むしろ逆ではないか。自分の想像力を超え出たものに出会い(出会ってしまい)、そのことによって自分が絶対的に変化させられるような体験にこそ真の感動がある。そのような体験は希望であるのか絶望であるのかさえもう分からない。元気をもらう、泣けるというような体験は現実に(世間に)接続するための感動であるが、真の感動は、私たちを現実から切断させる。私たちを現実世界に戻れなくする。すべての現実がどうでもよくなる。
このタイプの芸術は聴く者にもそれ相応のステージを要求する。エンタメ性が低くなるからだ。泣いてスッキリというわけにはいかない。バーメルトは典型的なそのタイプである。「通ウケ」する音楽家の見本のようなところがある。「聴く者の耳を試す音楽」と言ってもいい。
思えばバーメルトとブルックナーには共通点がある。両者とも、例えばマーラーのように世界の内側にあるものを深く掘り下げるタイプではない。身近な生活感情に根ざした心情を分かりやすく揺さぶるものではない。そうではなく、彼らの視線は、世界の外側にあるものへ真っ直ぐに向かっている。西洋であれば神とか超越者といわれる、この世界の「外部」である。ただ、この姿勢はなかなか日本人には理解されにくい(その割に日本でブルックナーが人気なのは不思議である)。西洋では、神という超越的な存在にリアリティがあるからこそ、その名の下に法が強烈な父権性として機能する。ブルックナーにもバーメルトにもこのリアリティが確かにある。だが、日本にそれはない。逆に、許し、肯定し、承認する母権性が支配している。だから、感動を表現する言葉も「元気をもらいました、ありがとうございます」、になる。だが、その母権的な空間の居心地のよさというものは、実のところ、異分子を排除し人柱にすることでしか維持されえない。だから、平気で異物を排除するような人間しか作り出さない怖いものでもある。だが、日本ではそれがほとんど理解されない(だから平気で異質な者を排除する)。日本でバーメルトが指揮するブルックナーを聴くと、その母権性が孕む暴力性の告発のように響くのが実に興味深い。バーメルトの音楽が持つ、ある種の突き放すような冷たさに拒否感を感じる人が少なからずいるようだが、他者を排除し味方を胎内に取り込んで逃がさない母権性(を信頼関係だと思い込んでいる)が支配する日本でそうなるのは至極当然のことと言える。
この「外側」への信頼は創作態度にもはっきり表れる。バーメルトはいわゆる現代的な音楽家であり、リズム、フレーズ、響きといった音楽を構成する諸要素を「ここしかない」というようなポイントに落とし込む。曖昧さは許されない。そうすると20世紀の人間が知らなかったような精密な美が立ち現われる。これを一度知ってしまうと、もう20世紀には戻れなくなる。しかも、この定期のブルックナーに関して言えば、自分が描けるとあらかじめ分かっているものだけを完成度高く描ききって満足する(バーメルトにはときにその面も見え隠れする)ような音楽ではなかった。超えるべきハードルを最大限に高く設定し、破綻を覚悟でそれに挑戦する。しかも、その上で見事に着地して見せたのがこの日のブルックナーだったと言えば、その驚くべき境域が理解されるだろうか。
前置きが長くなった。プログラムは、前半がシューベルトの「未完成」、後半がブルックナーの交響曲第7番。「未完成」については、平岡評に譲りたい。筆者にとっては、なんといってもブルックナーの日だった。
演奏が始まると、冒頭のトレモロの精度、チェロのユニゾンの存在感には、ほんの少し濁りがあり(ユニゾンからHrが抜けると急に響きに存在感がなくなった)、ここだけは、後ろのプルトの楽員までレベルが落ちない京響や都響、東響などにはまだ及ばないかと感じたが、第一主題の確保に、抉りの効いたHrのエコーが完璧に決まると(40小節:ここは聴こえなかったり、無意味にうるさかったり難しい)その後はもう気にならなくなった。というより、オケのレベルが何か不可視な力によって持ち上げられたような気がした。もちろん、札響の実力でもある。練り上げられたフレーズ感、繊細なイントネーション、そして何より純粋なハーモニーは、ときに和声的な濁りさえも完全にコントロールされて表出される。もう完璧無類としか言いようがない。
特にアゴーギグは計算し尽くされた職人業だった。テンポについていくつか挙げよう。まず、練習番号Hなどは、緊張感が緩みがちな箇所であるが、バーメルトはここでスッと加速させる。第7の第一楽章は再現部(O)の入り方も難しい。インテンポだと再現部だと分からないし、ルバートするとわざとらしい。だがバーメルトは、音色をフッと変化させることで見事に雰囲気を変える。ここもゾクッとした。387小節に入るときリタルダンドせずに小節をまたぐと同時にギアチェンジするのもセンスの塊のようである。バーメルトはかなりテンポを動かしているのだが、そのほとんどの箇所で、徐々に変化させるのではなく、フレーズ単位でスパっと切り替えている。こうするとあくまでも雰囲気の変化として聴こえる。感傷はゼロ。そして、そのすべての箇所で、いかにも操作している感覚がまったくないことに驚かされる。フレージングと響きの構成が全曲にわたってしっかりしており、かつ、すべてのパートを丁寧に聴かせているからに他ならない。あまりに当たり前のようにできているので、逆に何もしていないかのようなのだ。最高度の職人業という他ない。
そして、第一楽章では、何よりWからのトレモロが悲しいほど美しかった。絶対に手が届かないものに、届かないと分かっていながら遠くから憧れるような、憧れと哀しさが入り混じったような美感。気が遠くなるような体験だった。指揮者の計算通りに、まるで数式のように論理的でありながら、その完璧性がこの現実世界の淀みを照らし返すような、そんな儚さ、哀しさが一貫している。
第2楽章以下も聴きどころが連続した。特にコーダでDes-durに転調した後のワーグナーチューバとホルンのハーモニー。ここに関しては今まで聴いたことがないほど完璧だった。続いて虚空に消えていった透明な長三和音は、この後、一週間ほど耳を離れなかった。フィナーレでバーメルトは、Flのアーティキュレーションを変更したり、ワーグナーチューバのコラールで音価を変更したり(153小節)かなり大胆な処理を見せてきたが、そんなことは瑣末なことと思えた。ノヴァーク版の煩瑣なテンポの指示を、無視するところは無視し、採用するところでは思い切ってギアチェンジする。そのすべてが有意味でワクワクさせる。そして、天界へ道が開けるようなブルックナーパウゼ(Sの前)もおそらく一生忘れることができないだろう。第7はフィナーレが弱いので、最初の2つの楽章での深い沈黙が最後に興ざめしてしまうこともあるのだが、これまで知らなかったディティールの美しさが連続する堂々たるフィナーレだったことも付け加えたい。
終演後、なんとか指揮者のソロカーテンコールに持ち込もうとしつこく拍手してみたが、拍手はあえなくやんでしまった。東京から来た数人が「東京だったら総立ちになる」と興奮していた。さて、久々に音楽を聴いて骨抜きにされた。真の名演奏というものは恐ろしい。日常生活に戻ることができなくなる。この1年半、「音楽は不要不急ではない」という言葉が傷ついたレコードのように繰り返された。だが、真に優れた芸術というものは、やはり不要不急なものである。こんなものが生活の一部だったら身がもたない。だからこそ輝きを放ち、価値を持つ。
(多田圭介)
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