札幌劇場ジャーナル

札響【hitaruシリーズ】新・定期演奏会 第2回

20209月に紙の第6号の発行を予定していましたが、感染症の影響で予定していた記事の作成が困難となったため、当面のあいだ、札幌交響楽団、Kitarahitaru、ふきのとうホールの主催公演のレポートは、Web版にてお届けすることになりました。

※本記事より、Web版の記事は、(株)ジュエル・ミュージックのサポートによってお届けすることになりました。ジュエル・ミュージック(東京新宿区)は、全国でのオンラインに対応した音楽講師の派遣を核とした新しい音楽事業者です。ぜひリンクをご覧ください。また、紙の広告は引き続き募集中です。


2020年8月6日(木)札幌文化芸術劇場 hitaru

札幌交響楽団提供

hitaruで開催される札響の新シリーズ、新・定期演奏会第2回を聴いた。第1回は感染症への対応のため中止となっている。よってこれが第1回である。hitaruの音響はとても優れている。まず、席による音の違いが少ない。そして、どの席でも指揮者がどのような響きをつくろうとしているのかよく分かる。2,000席超の大ホールとしては国内では東京文化会館に次ぐ水準にあると感じる。今後はこの会場で継続的に札響定期を聴ける。期待は大きい。

 開演前に事務局長の挨拶があった。新シリーズには、若い才能を紹介するという趣旨があるという。今回で言えばソリストの辻彩奈であろう。また、現在発表されている今後のプログラムには必ず邦人作曲家の作品が含まれている。おそらくこれも新シリーズのウリなのであろう。

 プログラムはまず武満徹の「波の盆」が組まれた。1983年に同名のテレビドラマに武満が音楽をつけた作品である。チラシ等に詳細が書かれていなかったので、てっきり全曲版の第1曲「波の盆」のみが演奏されるものと思っていた。だが演奏が始まると、6曲の組曲形式だった。これは1996年になってから武満が自身で組曲に再編したバージョンである。実は筆者はこのバージョンを初めて聴いた。実に興味深い内容と演奏だった。

 作品は大戦中にハワイへ移住した日本人の公作が、開戦後に母国が敵国となったその複雑な心境を描いている。終戦後も解けないわだかまりの痛切さ、しかし徐々に和らぐ優しさ、これらが音に乗って響いてくる。当日は75回目の広島原爆の日。これに合わせたのであろう。印象に残ったのは、まず第2曲「ミサのテーマ」。ミサはキリスト教のミサではなく亡くなった公作の妻の名前。原曲の第4曲「ミサと美佐」を編曲した曲。幻のミサに向かって公作が語りかける音楽。公作の「ユーの苦労を伝えておきたいんジャ」に合わせて亡き妻への想いが甘美に盛り上がる。しかしミサのテーマの断片が2回繰り返され幻は消える。この繰り返しは原曲にはない。組曲で物語性を際立たせるために武満が書き加えたのであろう。この繰り返しの2回目を尾高は、寂しいが親密でもあるように、静かに鳴らした。幻がスッと消えてしまう儚さと哀しさが響いてくる。ここは尾高の強い共感が感じられた。

 前後する箇所ではチェレスタが活躍する。実演で聴いて気づいたことがある。チェレスタを、和声学的には遠隔調の超高音域で鳴らし弱音でそっと色づけするこの手法はR.シュトラウスのばらの騎士のそれである。オケの低音域とあまりに離れているため、遠隔調でも低音域の倍音がおそらくチェレスタの響きを微かに含むのであろう。まったく自然の摂理に逆らわないのだ。武満の自然描写には、強く人間的な感情が投影されているのが常だが、それでもあくまで自然そのものが鳴っているように聴こえるのはこうしたところにもその秘密があるのだろう。細川も自然描写を得意とするが、彼は人間の手が届かない自然そのものを音で描写しようとしている。自然を擬人化する武満とは正反対だが、共に人間の有限性を感じさせるのは興味深い。

 4曲「夜の影」の前には、原曲の第11曲「ヒロシマ」がそのまま挿入されていた。つまり実質的には7曲の組曲と聴こえた。この「夜の影」(実際は「ヒロシマ」)の、弦の不安に心がざまつくようなトレモロにも強いリアリティを感じた。このトレモロは公作の息子の作太郎が献金した爆撃機がヒロシマを爆撃していないことを祈る気持ちを表わしているのだ。何を表現しているのか知らなくとも強い焦燥を感じさせるトレモロだっただろう。

 終曲は葬礼のゆったりとした足取りのように厳かだった。しかし、やがて敵国に加担した息子とのわだかまりが広い海へ溶けてゆくような優しさがあった。そして、終戦から数十年がたち、亡き妻を失った寂しさに、もうすぐ妻に会えるという慰めと救いが入り混じって聴こえてくるような気がした。劇中で「死んだら魂はどこへ行くんじゃろ」に重ねられた主題でもあるのだ。決して大風呂敷を広げない尾高の視線がそれを高所から静かに見つめているように感じられた。ただ、それゆえに「夜の影」で描写されるパールハーバーの攻撃性では、作品が持つ暴力性が感じられず、なにか、過去の記憶を想起するように俯瞰的に聴こえた。とはいえ、戦争とか原爆というコンテクストを引き算してもなお残る本質的な人間の有限性が聴く者を静かで謙虚な気持ちにさせる、そんな演奏のように感じられた。

 2曲目はソリストに辻彩奈を迎えてメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調。辻のVnは、かのO.デュメイを想起させるほど瑞々しく強靭。そして前のめりに自己を表現する。少々気持ちが前に出過ぎるところもあるが、若いのでそれも長所だろう。対する尾高と札響は、滔々と流れる大河のように落ち着き払っている。この両者の違いを、面白いコントラストと見るか、齟齬と見るかで感想は異なってくるだろう。ただ、根本の部分で、互いが自己完結してしまっていたとは言える。カデンツの前後やテンポの変わり目では目配せをしながら呼吸を合わせたものの、特にメンデルスゾーンの天才的な木管の扱いが際立つ箇所などで何度か辻にオケのパートを大事にしてほしいと感じた。

札幌交響楽団提供

 まず、第1楽章では、131小節から始まる第2主題の手前で、徐々に静まって行き127小節からtranquilloに入る。この箇所などは、先立つ121小節から弦が1音ずつ下がり沈静化してゆくのだが、辻のVntranquilloに入るまで喨々と鳴り渡っていた。ここは静まってゆく弦に身を預けるような音楽ではあるまいか。また直後の第2主題ではオケのパートの各小節の頭に倚音が連続する。隣接する和声音に優しく寄りかかるような実に凝った書法である。ここでもVnの保属音Gcresc.が、楽譜より1小節早く、それも過度にかかってしまい、作品の繊細な表情が損なわれたように聴こえた。ただ、再現部の同箇所では、楽譜通りにcresc.していたので、提示部の同箇所では曲が始まったばかりで気持ちが出過ぎたのかもしれない。辻のVnが本当の意味でtranquilloに達したのはハーモニクスのフェルマータにおいてであった。

 1楽章の終始でFg.がホ短調の第5Hを伸ばし第2楽章へ橋渡しする。このH音に付されたFgの小さなcresc.はほんの小さな気持の変化であるはずだが、ソリスティックに吹きすぎたのも気になった。ただ、H音は第2楽章ハ長調の導音。引き伸ばされるH音が、ト長調(ホ短調)の属音からハ長調の導音に変わり、そして静に半音上がりハ長調に融けてゆく。Fgに、Flが、次にVa2nd.Vnが順に重なってゆくなかで徐々に印象が和らいでゆく。ここは音が少なく手を入れようがないのだが、本当に素晴らしかった。ただ、第2楽章では、調性の振幅を広げ不安定な心の揺れを表現した中間部(51小節~)が、ソリストとオケともに食い足りなさを感じた。他の箇所では意欲漲る辻のヴァイオリンには、ここでやらないでどうすると言いたくなる。

 終楽章ではまず変幻自在な辻の独奏に目が(耳が)離せない。冒頭の主題では35小節で裏拍に大きなアクセントをつけるし、コーダではカデンツを思わせるトリルの次に華麗に下降する際に209小節の2拍目のC音でフッと力を抜く。やりたい放題だが愉しい。音に自信が漲っている。よほど得意なのだろう。ただ、その直前のトリルでは、メンデルズゾーンの才気が溢れるような木管の動機が愛らしく花を添えている。こうしたところで背景に退くようにオケと対話ができると辻の音楽はもう一段レベルを上げるのではないか。また、再現部ではVnに対し弦に対旋律が出る。ここは、この楽章でオケが華麗なソリストと対等になる唯一の箇所だと思うのだが、オケが謙虚にすぎ立体感を感じなかった。ppの指定ではあるが、存在感のある響きで独奏と対等に音楽をつくってほしい。

 ソリストのアンコールはバッハの3番のパルティータからガヴォット。装飾音を加えながら愉悦を会場にバラまいた。協奏曲とともに自信のあるレパートリーであることが窺えた。

札幌交響楽団提供

 休憩後はベートーヴェンの交響曲第5番。古楽の影響など歯牙にもかけない堂々たるベートーヴェンを目指していた。だが、このスタイルでやるなら14型くらいは欲しくなる。当日は10型であった。これが感染症への対応なのか指揮者の意図なのかは分からない。終演後、テンポが速かったという感想が多かったように感じた。だが、物理的に速かったわけではない。スコアの2分=108に対して、体感では96くらいだった。それでも「速い」という印象になったのは、おそらく冒頭主題のフェルマータの扱いのためであろう。冒頭の主題には2回フェルマータが出てくる。フェルマータはあくまで「止まる」という意味なのだが、尾高は音価のちょうど2倍伸ばし(これは慣例よりかなり短い)間髪入れずに先へ進んだ。主題のフェルマータが出てくるたびにそうだった。これが「速い」という印象に繋がったのであろう。ただ、コーダに入る前の最後のフェルマータ(482小節)では、ここだけは、深く呼吸するように他の箇所よりも長く静止した。コーダへ入る最後の絶妙な呼吸感があった。だが、ベートーヴェンについては、他にあまり書くべきことがない。第2楽章の第1主題の展開(130小節)でFgがメンデルスゾーンに続いて張り切りすぎたことや、スケルツォの第1主題再現(236小節)でpp指定のところmfでくっきりマルカートさせたところは印象に残ったが本質的ではない。全体として、何か、母胎内で安住するような雰囲気を感じさせるベートーヴェンであり、最後まで未来を切り拓くような力を感じることはなかった。10型がマイナスに作用したのもあるだろう。もちろん、尾高は元来、デフォルメや外からの効果の付け加えに興味を示さない指揮者だ。それは彼の品格に繋がっている。かつ、何もしないのは大家ならではの自信の表れと見ることもできる。ただ、それよりも、時代性と尾高の音楽の呼応があるように感じられた。最後にその点の考察を少々。

 現代は、歴史によって生が意味づけられることがない時代だ。社会にどれほど貢献しようとも歴史の発展に寄与し得たと実感するのは難しい。革命の時代だったベートーヴェンの生きた時代とは根本的にそこが異なる。いま、全共闘時代のように改革で新しい世界を切り拓く世界観を信じている者は誰もいないだろう。むしろ、現代の今・ここは、重力の井戸の底である。尾高の音楽の根本には、現代が重力の井戸の底であることへの諦めがあるように、この日は感じられてならなかった。空へ飛び立つことが不可能な井戸の底を、あえて安心できる母胎内として提示することで、「きれいな嘘」として、あたかもユートピアとして提示しようとしてはいまいか。ここが井戸の底であることを誰よりも知りながら、「生きよ」、「そなたは美しい」と優しい嘘をついているように聴こえてならない。しかし、ベートーヴェンの音楽は、そこが重力の井戸の底であっても、その現実から眼を背けることなく、そしてその深さに正しく絶望し、かつその絶望から立ち上がることを訴えているのではないか。たとえ、結果によって励まされることがなくても、世界の外部をその目で見て手で触れることができなくても、それでも外部(他者)へ手を伸ばすことをやめない(飛び立とうとすることを諦めない)、そういう音楽を書いたのではないか。優しく優美な感触が一貫するベートーヴェンからは、逆に蝕まれたニヒリズムを感受してしまう。何か、自意識を超えた自然や歴史によって表象が複雑化されていないとどこか淡白になってしまうのだ。尾高が本質的に持っている母権的な優美さは、もちろん彼の美点であるのだが、この日にかぎっては(完成度の高さゆえでもあるのだが)筆者には諦念の音楽として聴こえてしまった。

(多田 圭介)

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