札幌劇場ジャーナル

鈴木 優人指揮 バッハ・コレギウム・ジャパン 演奏会レビュー(11月23日@札幌コンサートホールKitara)執筆:多田 圭介

バッハ・コレギウム・ジャパンからのクリスマスプレゼント ―真名(マナ)としてのバッハー

2021年11月23日(火) 札幌コンサートホールKitara

<Kitaraワールドオーケストラ&合唱シリーズ>、鈴木優人指揮、バッハ・コレギウム・ジャパン(以下では”BCJ”と略)を聴いた。翌週から始まるアドベント(クリスマスの訪れを待つ「待降節」)にまつわる作品から始まり、そこからクリスマス・オラトリオの第1部まで一気に駆け抜けるというプログラム。これから本格的な厳寒期に入る札幌のファンにとっては、心に温かい灯をともすような、1ヵ月早いクリスマスプレゼントのようなコンサートだった。プログラム前半は鈴木優人によるオルガン演奏に続いて、「いざ来ませ、異邦の民の救い主」に基づくカンタータ第61番。後半はブランデンブルク協奏曲第5番に続けてクリスマス・オラトリオ第1部。来るべき喜びを先取りするような気分が一貫するカンタータ第61番から、歓びが爆発するクリスマス・オラトリオ第1部へと繋げるプログラム。祝祭的な雰囲気が会場に満ちるようだった。ブランデンブルク協奏曲からも、クリスマス・オラトリオ第1部と同じ明るいニ長調の第5番が選ばれた。

プログラムに関しては、カンタータ第61番とクリスマス・オラトリオ第1部の間に、例えば61番と同じ「いざ来ませ、異邦の民の救い主」に基づくカンタータ第62番を挟むという手もあったはずだがそうしなかった。ここには強いコンセプトが感じられる。第62番は、第61番とは違い、より神学的に受肉の逆説へと集中する作品である。同作の第5曲「私たちはあなたの限りない光を見たのだから」において、聴く者は、呼びかけに応答することで「主体化」を促される。こうした内面の目覚めの音楽を挟むと、クリスマス・オラトリオに含まれる「受難のコラール」(第1部では第5曲がそれに該当する)が真に生きたものになるだろうし、そうすることでバッハの音楽は「魂のドラマ」(磯山雅)となったであろうが、そうしなかった。そうしなかった理由は、おそらく、このコンサートを、「この私を絶対的に超越した<外部>」から徹頭徹尾「到来するもの、贈られてくるもの」として、つまりクリスマスプレゼントとして客席に届けたかったからなのではないか。1ヵ月早いクリスマスプレゼントのようなコンサートだったというのはその意味である。「主体的な働きかけはいつも外から到来し、私たちはつねにその受動者である」という感覚は日本人には馴染みやすいものであろう。起源からいつもすでに遅れているという感覚、私は中心にいないという感覚は日本人に固有のものである。 

演奏からもそのコンセプトが感じられた。カンタータ第61番の第1曲はコラール詩節を「緩・急・緩」の形式に組み込むという(当時の)意欲的な構成を持つ。第3行「全世界の驚きとなるお方よ」で急速な3拍子に転じ、抑えがたい興奮が表現されるという構成である。しかし、鈴木&BCJはこの対比を抑制し、むしろコラール旋律の荘厳さが一貫するように演奏した。あくまでも客観的だった。救い主の入りを請願するソプラノのアリアも徹底してストレート。ソプラノは森麻季。森はいつもは言葉の意味をとても細やかに表現する歌手であるが、徹底して伸びやかに歌ったことが印象に残った。かつてE.ガーディナーと共演した際のナンシー・アージェンタなどは、まったく違った。アージェンタは例えば、第5曲の中間部の最後の詩句「ああ、それならどんなに幸せなことでしょう!(O wie selig werd ich sein!)」を、ビブラートを排して内面の奥深くで言葉の深みに啓かれるように歌っている。こうした言葉の受肉、主体化の契機はあくまでも抑制された(とはいえ素晴らしくピュアな歌唱であった)。しかもそれは、演奏を退屈なものにしたのではない。むしろ、遠い彼方に私たちの度量では推し量ることのできない卓絶した境地があり、それが私たちに贈られてくるという本公演のコンセプトと響き合うように感じられた。

札幌コンサートホール提供

ブランデンブルク第5番でも無垢な喜びが一貫する。実質的にチェンバロ協奏曲である同作にはサブとしてヴァイオリンとフルートのソロを伴う。ヴァイオリンは若松夏美。これがいつもながら素晴らしい。若松が一音発するだけで会場が華やぐ。若松はこのコンサートに華を添えた立役者の一人であろう。

札幌コンサートホール提供

バッハについて、BCJについて、すこし角度を変えてみよう。「どこか外部に上位の文化がある」という日本人の原信憑(※事務局注)のような感覚は、日本で聴くバッハ、北海道で聴くBCJという体験の本質をなにか照らし出しているようなところがある。外に自分を超えた本質があるという感覚は、私たちを謙虚に、そして寛容にする。だが、その謙虚さは同時に「切迫のなさ」、「今ここ」で最高のパフォーマンスを発揮しなくてもよいという甘えにも繋がりがちなところがある(確認までに述べると当日のBCJの演奏にそのような甘えがあったというわけでは決してない。演奏それ自体は優れていた)。神学のテクストをめぐるバッハの音楽は、客観的報告としての3人称の世界が、この私の1人称の省察として受け止められ、それが私たちの世界の共同性と高められるというように発展した。そこでは<自己の目覚め>、<主体概念の書き換え>が本質的な要素となる。この要素の迂回、そしてそれが優しいプレゼントとして受容されるところに、美質ではあるが同時に切迫のなさでもあるような、日本文化の本質があるように思われる。

思えば、日本人というのは、どこか外部に本質があり自分たちは周辺にいるという感覚につねにリアリティを持ってきた。中国から漢字が入ってくると、それを「真名(マナ)」(真の名)とし、先にあった言葉を「仮名(カナ)」(仮の名)とする。外来が正統で土着が隷属の地位に置かれる。つねに「お客さん」として自己を理解する。日本で聴くバッハ、そして北海道で聴くBCJにも、この志向がたしかに映し出されている。それはここ2年難しい状況に追い込まれた「コンサートホールで音楽に接する」という共同体験の意味を考える上で重要なヒントをくれるように思われる。 

札幌コンサートホール提供

私たちは、なぜわざわざコンサートホールに足を運んで音楽を聴くのか。オーディオでは足りないものは何なのか。映画は絶対に映画館で観ろという人はよくいる。そこでは、お約束の場面が近づくと共身体的に場が高まる。観客が見どころや鑑賞の作法を心得ているからだ。当然、その空気の醸成には自分も参加者となる。こうしたとき、自分が主体でありながら自分を絶対的に超えた「場」によって自分が再構成される。この空間性こそがライブの醍醐味である。人間には、人間が作り上げた文化(文明)のなかで初めて「自分」と「自分を超えたものを」同時に理解してゆく部分があるからだ。重要なのは、そうした空間性(物理的空間ではなく文化的空間)というものは、客席にいる一人一人が、経験を積み、本質を見出すようになった主体でなくては構成されないということである。空間性を良質なものにするか、そうではなくしてしまうか、これは客席の一人一人にかかっているところがある。

やや小言のようになってしまうが本年最後の本誌レビューの末尾に少し考えたい。札幌では、例外的に優れた演奏や上演であっても、会場が自発的に高揚するような空間性がなかなか発生しにくいところがある。自分を絶対的に超えたものを、<きっとこれは有難いものなのだ>と受動的に受け取るだけに終始しがちである。これを変えてゆくことは簡単ではない。だが、ヒントはこのコンサートにもたくさんある。筆者は、BCJを聴くとき、サントリーホールよりはより狭いオペラシティで聴くようにしているし、古楽に適した神奈川県立音楽堂が会場となるときは飛んでいく。そうしないと古楽のアンサンブルであるBCJがどんな団体なのか、古楽とはどんな魅力があるのかが、本当の意味では伝わらないからだ。2000席超のKitaraBCJには広すぎたし、適切な会場で聴くBCJの魅力からは遠かった。自分とは関係のない遥か遠くからその残光を受け取るだけにどうしてもなってしまう。

文化的空間性の構成には、聴き手、企画、出演者、それに当地の教育者、それぞれに重要な役割がある。催しに相応しい会場、相応しい演目、相応しいプログラム、お客さんの経験の蓄積だけではなくこうした重層的な要素が重なり合う必要がある。どれが欠けても空間性は生起しない。本当に困難なことであるが、だからこそすべてのピースがカチッとハマった瞬間に本当の美が立ちあがる。これは広くエンタテイメント全般に言える。こうした<空間性の意味>(=文明の中で「自分」と「自分を超えたものを」同時に理解してゆく)という観点でエンタテイメントをちゃんと認めること、そしてそれを観る眼を養ってゆくことが大切である。これがなければ、日本で聴くバッハは、先の漢字の例でいえば、「真名としてのバッハ」だし、北海道で聴くBCJは「真名としてのBCJ」、すなわち、自分とは本質的に無関係な超越的な外から到来する(だけ)のものに留まってしまう。BCJの札幌公演は、この2年苦境に追い込まれた他ならぬ舞台関係者たちが、共身体性が生起する空間性の意味について再考するよい機会になったように思われてならない。本年最後のWeb版のレビューを書きつつ、こんな記事ができることなどたかが知れているとはいえ、それでも、かき回して、議論を活性化させて、札幌の文化空間が少しでもよい方向に向かうためにまだまだ足を掻かなくてはならないと改めて思わされた次第であった。

(多田圭介)

 (※事務局注:「原信憑」とは現代哲学(現象学)の用語で、意識の規定性と無関係に何らかの存在者が自体的に存在するという自然主義的な思い込みのことです。転じて、人間であるかぎり回避することができない原理的なレベルの思い込みという意味でも使われる哲学用語です。本文中では日本人であるかぎりの根強い先入観という意味で使われているようです。原信憑:Urdoxa。(事務局より))

 

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