札幌劇場ジャーナル

【STJ第9号掲載】ウィステリアホール5周年記念事業 SINGSPIEL「ファウスト」

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ウィステリアホールのオリジナル「ファウスト」の古典としての魅力 執筆:多田 圭介

ウィステリアホールの5周記念事業ジングシュピール「ファウスト」を観劇した。ゲーテのファウストを土台に、同作にまつわる音楽作品を散りばめつつ、そこに平易な日本語による会話劇が挟まれる。ウィステリアホールのオリジナルの音楽劇として見事に再構成された。少ないスタッフと出演者が、膨大な時間と情熱を傾けて制作したことがヒシヒシと伝わってくる同ホール渾身の舞台。たった1回の公演のためにどれほどのコストを割いたのだろうかと思わされた。当日の印象をひと言で表現するなら「古典の真骨頂」というものだった。現代の日本語のウィットに富んだ会話劇としても十分な魅力のある台本(と演出)であったが、それよりも古典としての本質が紛れもなく舞台から輝き出ていた。

まず劇の基本的な構成と出演者について簡単にご紹介しよう。上演は休憩を挟んで前半と後半の2部に分けられた。これはゲーテの原作の2部にそのまま該当する。そして、音楽は、シューマンの「ゲーテの『ファウスト』からの情景」からの複数箇所の引用でガチッと骨格が据えられ、それにファウストにまつわる様々な歌曲や音楽作品が散りばめられる。また随所でリストのメフィストワルツ第1番からの引用が勢いよく弾かれ、それが物語の転換をもたらす。これが物語の進行を弛緩させないよう推進力を発揮した。

ピアノは同ホールミュージックディレクターの新堀聡子、グレートヒェン及び聖母などのソプラノを中江早希、ファウストがバリトンの駒田敏章、メフィストフェレスが朗読やナレーションで活躍する俳優の宇井晴雄。脚本や演出の基本プランは駒田と宇井が担当したとのこと。舞台は、最小限のセットと背景へのごく簡易な映写のみ。たったこれだけの人員と装置だけで(いや、後述するようにそれこそが効を奏したのだが)ゲーテのファウストの世界を見事に表現した。演出上の工夫点などは、駒田と宇井に譲ることにして、ここでは、古典としてのウィステリアホールのオリジナル・ファウストの魅力に迫りたい。

出演者のみなさま (C)氷見健一郎

まず、観劇した第一印象としては、創作物=物語の基本構造というものは大昔からどれほど多くが存在していようとも、それほど変わりようがない、というものだった。言い換えれば、時代や国によって社会の見た目がどう変わろうが、人間が社会(現実)に関わる構造というのはさほど変わりようがないということだった。もちろん、素材がゲーテのファウストという古典だからということもあるのだが、それよりも脚本と演出の基本プランが大きい。どれほど現代劇として平易に再構成されていようとも、ここ数十年くらいで作られた記号に頼るのではなく、徹底して数百年単位で持ちこたえてきた記号に足場を置いており、そこを踏み外さないように=つまり古典の枠を壊さないように留意されているのが舞台からはっきりと伝わってきたからだ。それがこの舞台を格調の高いものにしたのは間違いない。

エンディングには、シューマンの「ゲーテの『ファウスト』からの情景」の第3部のⅦ「すべて変わりゆくものは」(いわゆる「神秘の合唱」)が選ばれた。そこまで日常の雑多なやり取りが中心だったのだが、聖母の救済によってファウストの魂は天上の世界へと連れ去られる。ここで、駒田と中江が手を携えて舞台後方へと歩みを進める。背景にはゆっくりと回転する地球が映し出された。「永遠に女性的なものが私たちを天へと引き上げる」という、かの歌詞に合わせて場内は驚くべき霊感に満たされる。深々と沈み込む5度の連続のなかでバッハやそれどころかパレストリーナの対位法へのオマージュを響かせ、それが変わることのない人間の真実(=古典の世界)を露わにしたのだ。ゲーテの原作、シューマンの音楽、そしてウィステリアホールのオリジナルの3者に通底するものは「翻身もの」としての古典の神髄だったと言える。

20世紀の後半から現代までの数十年のあいだ、創作物の基本フォーマットは「成長もの(ビルドゥングスロマン)」が趨勢を占めていた。これは世界的にそうだった。だが、さらに遡ると、例えば本邦伝統の能や浄瑠璃には、「翻身もの」の基本構造がある。実は創作物、それも舞台の物語構造としてはこっちのほうがずっと歴史も射程も長い。このウィステリアホールのファウストには、まぎれもなく「翻身もの」の本質が輝いていた。

「翻身もの」とは、ある種の「日常」と「非日常」の対比モノなのだが、例えば世話物(心中もの)だと、主人公が心中を決意したその瞬間に「何か」が降りてきて普通でない存在に昇格する。その変化の凄まじさに驚嘆したり、変化しなかった人との関係に着目したり、というのが基本である。同公演のエンディングにはその核心がたしかに現われていた。「翻身もの」の魅力を潰さないために重要なのは過剰にリアルに作り込みすぎないこと、である。極端な話、顔が見えなくてもいい。影絵芝居は現にそうだ。見えないはずの顔に翻身が訪れた瞬間に、とてつもなくリアルな表情が「見えてしまう」。そのためには、舞台は100%リアルでは「ない」ほうがいいのだ。同公演のシンプルな舞台装置と人物設定は、ファジーであるからこそ、観客が頭の中で補完し、一つのキャラでありながら様々な像をそこに投影する余地がある。これが翻身が訪れたときの圧倒的なリアリティを生みだすことになるのだ。

また、翻身=オルタレーションは変身=メタモルフォーゼとも異なる。変身は例えば特撮ヒーローのようなもので、変身した後に元(日常)へ戻る可能性がある。日本的に言うと「ハレ」が訪れてもまた「ケ」に戻ることで日常が回復される。これに対して、翻身ものは不可逆。変わったらもう日常には戻らない。ある意味で人格から神格に格上げされる。実は、ここ数十年、現代舞台劇でも翻身ものはほとんど日の目を見ていない。大衆的なメディアでは大衆がそれを許さないところがあるからだ。世相が安定しているときは特にそうなる。変身ものは日常が脅かされるとヒーローが秩序を回復させ元の日常に戻る。だが翻身ものは世界がネクストステージに上昇する。変身ものが回復モチーフだとすれば翻身ものは革命モチーフなのだ。ある意味、現実世界の回復よりも、現実の超克が志向されるときの物語構造だと言える。暗い時代である今、翻身ものこそが希求される時代であるということは間違いない。ゲーテのファウストという作品は、舞台や映画で再構成される場合、実のところいかようにも料理できる余地がある。だがウィステリアホールは徹底して「翻身もの」としての古典のファウストを大切にした。

澄んだ歌声と老婆のコケティッシュな演技も卓越していた中江、尊大なファウスト像を見事に打ち立てた駒田、舞台を親しみやすいものにした立役者の宇井、八面六臂の活躍だったピアノの新堀、裏で舞台を支えたスタッフの大変な尽力、全員に心から大拍手を送りたい。素材の少なさを逆手にとって最大の成果を挙げた見事な古典劇だったと言える。

(多田 圭介)

リアルとファンタジーの間 執筆:駒田 敏章(バリトン)

『ファウスト』を上演するに至る流れは、これまでのウィステリアホールでの演奏会の延長線上にあります。札幌の地で、ウィステリアホールとの協力でなければ上演することは不可能だったでしょう。そういった意味では5年という月日をかけて制作してきた、とも言えるかもしれません。コロナ禍での演奏会の中止も『ファウスト』上演のためには必要な事だったのかもしれない、と今では思います。

これまでウィステリアホールではドイツ歌曲を中心に演奏してきました。ミュージックディレクター新堀さんの要望でもあり、自分のライフワークともいえるジャンルの音楽なので自信を持って演奏できるのですが、日本のお客様にどうすれば理解してもらえるのかは毎回頭を悩ませてきました。日本人の聴衆を前にドイツ語で歌唱しても当然ながら言葉は理解してもらえません。聴衆にとって、初めて聴く知らない曲で、言葉が伝わらなかった場合、聴衆の反応は歌手の声や技術の評価が中心になってしまいがちです。曲のメロディーの美しさなども聴いてはもらえるのですが、ドイツ歌曲の最大の魅力は「言葉と音楽の結びつき」にあるので、それだけでは勿体無いと思っていました。

最初の演奏会では紙の対訳を出しました。お客様にとっては全体の歌詞は理解できるものの、今どこを歌っているのか理解しづらいものだったと思います。少しでもリアルタイムに理解してもらうために、二回目の演奏会からは字幕を出すようにしました。字幕を出すというだけでも、機材の用意、字幕データ作成や本番中の字幕操作など、演奏以外の手間やコストがかかります。たとえ東京都内のコンサートであってもコストの問題で出せないところも多くあります。皆さんが思っているよりも字幕を出すことは大変なのです。ところがウィステリアホールでは字幕を出すという前提で毎回動いてもらえます。なかなかこんなホールはありません(笑)ステージの壁が黒いのも、白い文字を映しやすいのでGood。この、黒を基調としたホールで「黒壁に白で投影」の美しさは、後の『ファウスト』に繋がっていきます。

(C)ウィステリアホール

さて、お客様にもっと内容を理解してもらうために、ウィステリアホールというコンパクトなホールだからこそ出来る演奏会を作りたいと考えるようになっていきました。一曲ごとに解説を入れる事も何度もやっています。コンパクトなホールなのでマイクを使わずに(演奏が生音である以上マイクは使いたくないのです)お客様との対話の形で進められます。これは悪くはないのですが、一曲ごとに現実に戻り、演奏時には再び詩と音楽の世界に戻るというのもなかなか大変です。それでも、お客様にそれぞれの曲の物語を理解してもらってから聴いていただくことは有意義なものでした。「物語」を理解できれば、音楽の意味も理解し易くなるのだと思います。そして、ウィステリアホールでは「朗読劇」をたまにやっているというのを知ったのもこの頃でした。そんな色々模索しているところに「コロナ禍」がやってきました。仕事がほとんどキャンセルになり暇になってしまいました。アーティストとして活動せねばこのままでは自分はダメになってしまう!と思い、台本を作ったのが、歌と朗読で紡ぐ、ブラームスの『美しきマゲローネのロマンス』です。ブラームスの代表作で、音楽の内容も素晴らしく、以前からやりたかった曲です。しかし日本ではなかなか演奏されません。なぜなら、原作の日本語訳本は出版されているのですが、日本には演奏会用の台本が存在しないのです。この作品には日本語での朗読は絶対に必要です。無いなら作ればいいじゃない!という事で、友人で役者の宇井君に声をかけて「コロナ禍」での時間を使って作りました。今となっては「もっと平易な日本語にすればよかった」とか「もっとカットすれば」など色々反省点もありますが、とにかく台本から作った初めての経験でした。そして本番では舞台スタッフの鷹田さんが細やかな照明を作ってくれました。もちろんコンサートとしての照明だったのですが、こんな事もできるなら「芝居」が作れそうだ、と勝手に思いはじめました。そしてミュージックディレクター新堀さんから再びドイツ歌曲での演奏会のお話を頂いた時に、ついに僕は『ファウスト』を提案するのでした。

プレミアムクラシックⅫ「マゲローネのロマンス」の様子 (C)ウィステリアホール

プレミアムクラシックⅫ「マゲローネのロマンス」の様子 (C)ウィステリアホール

ゲーテの『ファウスト』は、たとえ日本人でも、作品の名前くらいは知っている人は多いでしょう。それだけ偉大な古典作品で、数多くの作曲家が音楽をつけています。その錚々たる作曲家の作品を並べるだけでも演奏会の価値はあります。ただ「物語」をわかってもらえたら音楽作品の理解も深まるからと「役者」の参加もお願いしました。この時点ではまだ「歌と朗読」の演奏会の可能性が高かったと思います。ただ『ファウスト』が本来はお芝居として書かれていることから、可能であるならオペラとお芝居を掛け合わせたようなものにしたい、と漠然と考えていました。なんにせよ先ずは台本と曲目を提出することになり、台本作りが始まりました。これが想像していたよりも数倍大変な作業でして、終わる気配がありませんでした(笑)全体を日本語で読む事すら難しい(人によっては苦痛)のに、僕はドイツ語から翻訳し、宇井君は英語から訳したものを突き合わせながらあーでもないこーでもないと朝から晩までやるのです。全体をやるには長すぎる(10時間くらい?)のでカットもしなくてはいけません。僕は、話がわかればいいのだ、とバサバサカットしていくのに対し、役者の宇井君は登場人物のキャラクターがわかるセリフをしっかり入れていきたいので意見が対立することもありました。オペラ作曲家の苦悩(全体が長すぎる!と言うまわりの人、カットしたくない作曲家)を思い知りました。どちらも作品をお客様に理解して欲しいだけなんですけども。

東京での稽古の様子

曲目も考えなくてはいけないので世界に存在する『ファウスト』関係の音楽全てを調査することも始めました。これはとても楽しい時間でした。自分が台本を作りながらの作業だったという事もあり、作曲家の意図が面白いほどよくわかります。最終的には演奏を通してこの様な感覚をお客様と共有したいですね。

この頃、重要な登場人物グレートヒェンはやはり女性でやるべきとの周りからの意見もあり、ソプラノの中江さんにも参加をお願いすることになりました。本当は僕が歌いたいグレートヒェンの曲があったのですが泣く泣くお願いしました。。そして全体会議でチラシの作成が始まり、「歌芝居」という文言を入れる事になり、ついに大ごとになってしまいました。「朗読劇」と「芝居」では必要な稽古も作業も段違いです。東京組の稽古日程の擦り合わせから、舞台デザイン、装置、字幕、照明、舞台転換の音楽の選定、衣装などをまたもあーでもないこーでもないと打ち合わせていきます。簡素な舞台なので映像投影で各場面を表現するのですが、映像作成は舞台スタッフ鷹田君にお願いしました。シーンが多いので量的に大変な上に「ちょっと動いてるといいなあ」とか「スタイリッシュかつグッとくる感じで」とか「リアルとファンタジーの間くらいで」というような訳のわからない感覚的な注文に良く答えてくれたと思います。そして舞台床も黒くしたいからリノリウム(舞台用の床材)を敷いて欲しいという注文に答えてくれた懐の深いホールにも感謝です。リノリウムは高価なのです。。

東京での稽古の様子

ここまでで既に大変な作業だったのですが、札幌入りしてからが本当に大変な日々でした。照明と映像を作ってから稽古をするのですが、全員が体力と精神力を限界まで削る日々(笑)興奮すると忘れる台詞、力が入るとなぜか出てくる方言(僕の場合は名古屋弁)

というわけで関わった人全てが大変な舞台ではあったのですが、ゲーテの『ファウスト』と音楽を日本のお客様に伝えるために出来る限りのことをしたと思います。ほとんどのお客様にとって耳馴染みのない曲ばかりだったと思いますが最後まで見て聴いてくださってありがたいことです。舞台の内容を突き詰めたらあの選曲になりました。舞台の評価がどうだったのかあれから時間が経っても出演者だった自分には本当のところはわかりませんが、ウィステリアホールと自分達演奏者の進化の過程です。最小限のコンパクトな人間達で作り上げる舞台として、ウィステリアホールの名物の様なもの?になれたら嬉しく思います。

(駒田 敏章)

想像力を信じて 執筆:宇井 晴雄(俳優)

日本の古典作品に触れるとき、例えば歌舞伎では、当時の事件や風習といった文化的な背景を知っていれば、より楽しめるのは言うまでもありません。おなじようなことが「FAUST」にも言えます。宗教的な背景や、ギリシャ神話への造詣、当時の科学に対する認識が物語に味わいのひだを与えます。それらについて理解を深めることが楽しみの一つである一方で、物語の骨格そのものも、十二分に興味深く、話の展開に心を躍らせてくれます。これこそが長年にわたって語り継がれてきた「FAUST」の魅力です。シェイクスピア作品の多くがいまだに上演されるように、人間が生き生きとえがかれています。ゲーテはシェイクスピアの作品からも影響を受けているそうですが、「FAUST」においても、兄と妹の関係などに似たような雰囲気を感じました。追いつめられるマルガレーテのためには、どうしても兄の存在が必要であったと考えます。このように「FAUST」上演にむけて上演台本をつくる過程では、どうしても必要な要素は残しながら、切るには忍びない場面をなんとかカットして、最終的に残ったのが今回のプロットでした。

(C)氷見健一郎

「FAUST」から着想を得て、多くの才能が曲をかきました。その曲たちは、作曲家たちが「自分はこの場面をこう捉えた」という表明に他ありません。ですから、「FAUST」という作品をもとに、曲の魅力をありのままお届けできるようにと、上演スタイルはシンプルにすることに努めました。物語の受け手となるお客さんに、創造の翼を広げる余地を残しています。「FAUST」では翼を羽ばたかせてもあらぬところへ飛んでいくようなことはありません。この翼を受け入れる力があります。舞台装置、照明、衣装に至るまで、曲と物語以外の情報は付加することを避けたのが、今回の上演スタイルです。この点について、宇井、駒田間では齟齬はなく、企画を始めたときから不思議とお互いそのつもりでいたようです。宇井としては、舞台全体を通してのバランスを整えていく役割を担っていたと思います。そうして、演者とスタッフからの様々な意見を集約して出来上がったのが今回の「FAUST」です。舞台装置は、劇場として、物理的に可能な範囲で高低差をつけることをお願いしました。一見したときにアンバランスであることが条件でした。人の感情や関係性の動きを見せる舞台において、バランスの整った空間は演じるうえでは制約となり、芝居を不自由にしてしまいがちなので、あえて、どこかしら不均衡な空間とし、その中で、身体的にも内面的にも常に人が動く状況を生み出すためでした。

(C)氷見健一郎

照明についても、劇場の全面的な協力によって様々な工夫をすることができました。どこかでミラーボールを回したいと思いつつも、使うことはありませんでしたが、劇場の持つ照明能力をフルで使用しました。舞台において照明は、演者を明るく照らして見えやすくすること以上に、舞台を物語の世界へと変貌させるためのとても重要な役割を担っています。神様(「主」)に後光をさしてみたり、さわやかな庭園を表現してみせたり、舞台上に色々な時空を生み出してくれました。演者はピアノ奏者や共演者と同じように、明かりとも芝居をすることになります。牢獄の場面では、プロジェクターによる投影も照明のような役割を果たしてくれています。

(C)氷見健一郎

プロジェクターは、絵/画の投影だけでなく、照明としても使いつつ、映像、画像は基本的にはシンプルなものをお願いしました。先述の理由と同じです。今回は、使用する曲と上演作品全体とのバランスの上でプロットを構成した結果、登場人物は大きく減り、シーンの数も原作からは相当少なくなっています。それでも、短めの場面をいくつもつなげるという上演台本が出来上がったので、上演に際しては、シーンごとの設定をある程度明確にすることが必要と考えられました。

人の想像力を私は信じています。芝居も音楽も、想像力によって力を得るものだと思っています。届け手、受け手ともに、その想像力を信じてつくり上げたのが今作です。また、これが実現できたのは、劇場の機構と映像をつくる技術を持った素晴らしい人材が劇場側にいたことによるものです。

客席後ろから映像を投影

ウィステリアホールという劇場で産まれたものですから、現段階ではこの劇場が「FAUST」に最もフィットしていますが、どこでも上演可能なスタイルになったと思っています。今回の「FAUST」をともにつくり上げた仲間と、応援してくださったかた、観に来てくださった皆さまにこの場をかりてお礼申し上げます。

(宇井 晴雄)

ミュージックディレクターからのご挨拶(新堀 聡子)

音楽劇「ファウスト」は演者4名と舞台スタッフ2名で作り上げた舞台でした。台本制作、演出、音楽、映像、字幕等、本来ならば大勢のスタッフで担うところ、最少人数で最大限の可能性を引き出し成り立ったものだと思っております。この舞台のアイディアは以前から聞いて話し合っておりましたが、当初は具体的なイメージをはっきり掴めていませんでした。そこへ駒田宇井両氏による台本作りが始まり、中江さんにもご協力いただくことが決まり、徐々に公演に向けて現実味を増していきました。ホールが5周年目を迎える節目に実現できたことに感謝です。

共演の3名はプレミアムクラシックにも何度かご出演いただいており、演奏家・演技者としての信頼と尊敬はもちろん、人間的にも魅力溢れる方たちです。ご来場いただくお客様にどうすればより伝わるか意見を交わし、良いものを作りたいという情熱を持った面々と一緒に舞台を作る過程は、疲労困憊しながらも充実した得難い時間でした。

通常の演奏会形式での本番が主な私にとって、新しい舞台の可能性を体験し知りえたことも大きな収穫でした。このような形式の音楽劇がまた実現出来る可能性も探りながら、今後の演奏活動や公演企画にも力を入れていきたいと思っております。

(新堀 聡子)

 

 

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